保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

新型コロナと憲法(5)  ~現実を踏まえぬ理想論~

憲法25条は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を生存権として位置付け、13条では「すべて国民は個人として尊重される」ことを保障し幸福追求権を権利として掲げている。

 コロナから人々の命と暮らしを守り、壊れかけた社会を立て直すことが、何より優先されるべき憲法の要請であることは明らかだ》(5月3日付沖縄タイムス社説)

 が、政府が人々の命と暮らしを守るべく努めることは当然のことであって、わざわざ<生存権>を持ち出すような話ではない。個別具体的に何がどう問題であり、どう対処すべきかを論じなければ意味がない。

最高裁は,食糧管理法違反事件において,25条が個々の国民に対して具体的・現実的権利を保障したものではないと,学説でいうプログラム規定説的見解にでた(最大判23929刑集2101235頁)。

 また,最高裁は,生活保護法のもとでの厚生大臣の保護基準の合憲性が争われた朝日訴訟上告審判決において,「念のため」と表示された傍論において,生存権の具体的権利性を否定した(最大判42524民集2151043頁)。最高裁は,社会保障の権利性は立法によって創り出されるものと考えていたのである。

 その後,学説における立法裁量論の影響を受けてか,判例も,25条の趣旨を活かす施策のなかにも,国会の広い裁量に委ねられてよいものと,そうでないものとがある,と指摘するようになった》(阪本昌成『憲法2 基本権クラシック』(有信堂)[全訂第三版]:152

《感染拡大を防ぐために、どこまで自由や権利の制限を受け入れるのか。非正規労働者らへのしわ寄せが深刻化するなか、憲法25条が保障する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」をどう実現するのか。教育を受ける権利や集会の自由との兼ね合いは――。

 いずれも、各条文の趣旨を踏まえて熟考すべき重い課題であるが、それは憲法を変えねば対処できないということを意味しない。施行から74年、国民の間に定着し、戦後日本の平和と繁栄、自由な社会の礎となってきた憲法の諸価値を十分生かすことを通じて解を探るべきだ》(5月3日付朝日新聞社説)

 相変わらずの憲法観である。日本国憲法に我々が目指すべき理想が書かれているのに、日本はこの理想を実現しようと努力していない、という認識である。

 が、日本国憲法に書かれた内容は果たして我々が目指すべき<理想>なのか。目指すべき未来とは、過去から現在へと続く時の流れの延長線上に見るべきものではないか。

 「理想」は別個に存在するものではなく、「現実」を踏まえたものでなければならない。<現実>と乖離(かいり)した<理想>など非現実的なただの「妄想」である。

 最後に、阪本氏の次の指摘は注目に値する。

生存権を実現することは,政治部門の大幅な裁量に依存せざるをえないことを,私たちは了承するほうがいいだろう。そのさいに,私たちが警戒しなければならないことは,「経済的弱者救済」の美名のもとに,政治部門が低・中所得者層の人気取り政策をするかもしれない点だ。

 私たちが生存権の解釈にあたって留意しなければならないことは,第1に,社会保障事業のうち,25条はそのどこまでを本来の射程としているのか考えてみること,第2は,社会保障事業が拡張されればされるほど,かえって既得権が生まれたり,国民負担率が耐え難いほど高くなったりしないか,再検討することだ。わが国のみならず,福祉国家実現を夢見た国々において,“現行の社会保障制度は真に救済されるべき人びとの利益となっていない”といわれているのは,社会保障制度が所得の再分配政策となってしまったからだ。私たちの獲得した富を国家が再分配しようとするとき,そこに利権争いが生ずることは容易に想像できる。経済的弱者という政治的強者ができあがるのも,こうした政治過程のためだろう》(同、阪本:152​【了】​