保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

米下院が「ジェンダー用語」の書き換えを求めたことについて(3) ~自由を抑圧する平等~

当時、次世代の党に所属していた杉田水脈(すぎた・みお)議員は衆院本会議において、次のように指摘した。

「本来日本は、男女の役割分担をきちんとした上で、女性が大切にされ、世界で一番女性が輝いていた国です。女性が輝けなくなったのは、冷戦後、男女共同参画の名の下、伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指してきたことに起因します。

男女平等は、絶対に実現し得ない反道徳の妄想です。女性にしか子供を産むことはできない。こんな当たり前のことに目を背けた政策を続けた結果、男性ばかりか当の女性までが、女性にしか子供が産めないことをネガティブにとらえる社会になってしまいました」(2014年10月31日衆議院本会議)

 <男女平等は反道徳の妄想>と言われて、その通りだと思う人は現下の日本において稀有(けう)な存在であろう。それほどまで<男女平等>は絶対的なものに祭り上げられてしまっている。

 が、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは言った。

「立法者であれ革命家であれ、平等と自由を同時に約束する者は、空想家でなければ山師である」(『ゲーテ全集 13』(潮出版社)、p. 219)

 元々男女には「脳の性差」によって生物的な違いがある。にもかかわらず、男らしさや女らしさを否定し男女平等を言い立てれば、自然男性も女性も自由を抑え込まれてしまうことになるだろう。

 果たして男性や女性の自由を抑圧し人工的に男女平等を目指すことが良い事なのか、今一度よく考えてみる必要もあると思う。

 男は女性の女らしさを敬い、女は男性の男らしさを尊ぶ。男女が互いに相手を尊重し思い遣る。この相互尊重こそが大切なのであって、それが社会秩序を維持するための1つの<道徳>となってきたのではなかったか。だとすれば、男女平等を求め過ぎることもまた杉田議員の言う通り<反道徳>的側面があることも否めないことだと思われる。

 男に男らしさが無くなれば、必然女性が男を尊ばなくなるだろう。また、女に女らしさが無くなれば、男性が女を敬わなくなってしまうに違いない。男女平等の行き着く先は、男女の相互尊重がなくなってしまう社会である。

《水平化する者の勝利は、「とりもなおさず」彼自身の滅亡なのだ。いかなる時代も水平化の悪循環を停止させることはできない。この時代、すなわち現代にも、それはできない。現代が悪循環を停止させようとするその瞬間に現代はまたしてもこの法則を発揮することになるだろうからである。この水平化の悪循環を停止できるのは、個人個人が個々別々に不動の宗教性を獲得するということをおいてはありえない》(キルケゴール「現代の批判」:『世界の名著 40』(中央公論社)桝田啓三郎訳、p. 395)​【了】​