保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

都合の良い民主主義を語る民主主義信者(1) ~「国民主権」は民衆の暴走を止められない~

《米国のバイデン大統領は1月20日の就任演説で、冒頭から民主主義に言及しました。

 「今日はアメリカの日です。民主主義の日です」「私たちは候補者の勝利でなく、民主主義の大義の勝利を祝います」「私たちは再認識しました。民主主義は貴重で壊れやすいものです。そして今この時に民主主義は勝ったのです」

 就任演説の中で民主主義に言及したのは11カ所に上ります》(2月7日付東京新聞社説)

 <候補者の勝利でなく、民主主義の大義の勝利>とは何か。私はここに非常に危険なものを感じる。つまり、<民主主義の大義>のためであれば、「不正」も厭(いと)わない、そのように聞こえもするからである。

 今回の米大統領選挙には<不正>あったのではないかとの疑念がある。社会科学的には、「なかった」とは言えないから、「あった」かどうかが焦点となる。が、私の見る限り、「あった」というトランプ氏側の指摘は払拭されたというよりも抑え込まれたという印象の方がはるかに強い。

 また忘れてはならないのは、日本に原爆を落としたのは米国の民主主義であり、この大量虐殺をいまだに自己正当化しその罪を認めないのもまた米国の民主主義だということである。

《民主主義とは、そもそもどんな制度なのでしょうか。

 教科書風にいえば、日本をはじめ多くの国が採用しているのは議会制民主主義で、主権者である国民が民主的な選挙で選んだ代表を通じて政治を行うことです》(同)

 これは議会制民主主義の説明であって民主主義自体を説明していない。民主主義の信奉者が民主主義をうまく定義できないというのは致命的である。

 私は民主主義を信奉する者ではないのでこれを定義する義理はないのであるが、話を前に進めるために

 「国民に主権を置く政治体制」

とでも定義しておこう。つまり、<国民主権>こそが民主主義の要諦(ようたい)だということである。

 が、<国民主権>が「フランス革命」に始まる様々な災厄をもたらしたことは歴史的事実である。<国民主権>では、一旦民衆が暴走し出すとこれを止める術(すべ)がない。だから国民に主権など与えてはならない。これが歴史の教えるところである。

 日本国憲法にある「主権在民」も「革命」を引き起こすために仕掛けられた時限爆弾だったとも言えるだろう。今となっては夢物語かもしれないが、敗戦後の日本に共産主義革命が起きても不思議ではなかった。戦後憲法はそのために導入されたと言っても過言ではない。

 が、時限爆弾は不発に終わった。なぜなら日本には国民が暴走するのを抑える術があったからである。それは言うまでもなく皇室の存在であった。【続】