保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

戦後75年の終戦の日を迎えて(1) ~民主主義信者の戦後~

《日本が戦争に敗れて、きょうで75年である。

 筆舌に尽くせぬ惨状を経て、この国は戦争の愚かさと平和の貴さを学んだ》(8月15日付朝日新聞社説)

 何と偉そうな物言いであろうか。そもそも日本を<この国>などと見放しているのが気に入らない。

 我々日本人はかの戦争から何を学んだのであろうか。我々が学んだのは本当に<戦争の愚かさと平和の貴さ>だったのか。

 抽象的には、「戦争は愚かなもの」とは言えるだろう。が、我々が戦ったのは具体的な戦争である。命を賭し、一億一心火の玉で戦った戦争から<戦争の愚かさ>などという冷めた言葉が引き出されるものなのだろうか。

 「戦争は愚かなもの」と冷淡に言えるとすれば、それは「部外者」である。平和の高みからお気楽に戦争に与(くみ)した先人たちを愚か者だと軽蔑しているのである。

 最後通牒ハルノート」を米国から突き付けられ、戦うか白旗を上げるのかの二者択一を迫られて、「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む」がごとく戦うことを選択した苦渋の決断を、部外者が「愚か」だと言うのは簡単である。が、戦わずんば、他のアジア地域と同様に欧米帝国主義国の植民地にされ、搾取されることを受け入れなければならない。それが賢明な選択だったとでも言うのだろうか。戦って自主独立を守ろうとするのか、戦わずして隷従隷属に甘んずるのか。

《二度と過ちを繰り返さない。その誓いとともにあったのは、「民主主義の世の中」に変わるという国民の意識だった。

 国に民が仕える国家主義ではなく、民が主権者として進路を決める民主社会へ。

 その変革は、どこまで達せられただろうか。人々がそれぞれ等しく個人として尊重される世の中になっただろうか》(同)

 第2次世界大戦は「民主主義」と「ファシズム」の戦いであったと言われることがある。だとすれば、戦争をするかしないかは民主主義であるかどうかとは関係がないということである。もっと言えば、戦争に勝つか負けるかも民主主義とは無関係である。

 国家主義は誤りで、民主主義が正しいという考え方は間違っている。国か民かの二者択一ではない。国は民を尊重し、民は国を敬重する。その相互依存の平衡が崩れた時、国や民が暴走するのである。

治安維持法などにより、言論が厳しく取り締まられた時代である。軍部が情報を操作し、朝日新聞を含むメディアは真実を伝えず、国民は多くを知らないまま一色に染まった。

 個人を尊重する戦後民主主義の理念は、あの戦争から学んだ社会の安全装置なのである》(同)

 どうして個人を尊重する民主主義が社会の安全装置と成り得るのか。ともすれば個人が暴走し革命を引き起こしたり、個人が寄り集まって全体主義となったりする危険もある。民主主義と平和にさしたるつながりはない。【続】