《政府は昨年末、第5次男女共同参画基本計画で目標値を掲げた。国政選挙では、候補者に占める女性の割合を25年までに35%にするという。
ところが、共同通信が行った全女性国会議員へのアンケートで、この目標達成は「困難」と回答者の66%が答えた。
背景として、「政治は男性のもの」とする固定観念など女性の立候補や活動に壁がある―とする議員が多かった。家庭や子育てとの両立も障壁として挙がり、「強制力のある制度が導入されない限り困難」と指摘する声がある》(4月4日付中國新聞社説)
が、どれくらいの女性が国会議員になりたいと思っているのかという問題がある。そもそも国会議員になろうとしている女性が少なければ女性比率が高まるわけがない。「国会議員になりたいと思っている女性は一定数いるけれども、<壁>があるためになれない」というのなら分かる。が、果たしてそうか。
<壁>があるとすれば、この<壁>を乗り越えて国会議員となった女性は優れた能力の持ち主だということになろう。が、実態はそうなっているとはとても思えない。
無論、おかしな国会議員は女性に限ったものではない。その意味では男女平等なのだ。つまり、資質が疑われる国会議員の男女格差は見られないということだ。
《女性議員を増やす策として、「クオータ制導入」を7割が挙げた。候補者の一定比率を女性に割り当てる制度で130カ国以上が導入し、国会議員に占める女性の割合を高めている》(同)
仮に女性が国会議員になりたがっていないのに<クオータ制>を導入すれば、なりたくもない国会議員に無理矢理ならせることになり、それこそ女性の職業選択の自由を奪うことになりはしないか。
「国会議員が濡れ手で粟の『おいしい仕事』であり、これを男性が支配している」などと考えるのは女権拡張論者の嫉妬が生み出した「幻想」ではないのか。他にも世の中には<おいしい仕事>がたくさんある。わざわざどうして無理してまで国会議員などにならなければならないのか。女性優先で大臣になった女性が国会で吊し上げにあった光景を見て、誰が女性大臣になりたいなどと思うのだろうか。
《妬みは無性格性の原理として成り立つことになり、自分は無きに等しいものだといって譲歩しておいてたえず自分をかばいながら、その実なんとかみじめな境涯から脱け出て、ひとかどのものにこっそりのしあがろうとする。無性格の妬みは、否定しながらも実は自分も傑出したものを認めているのだということが自分でわからず、むしろそれを引きずりおろし、それをけなして、それで実際にそれをもはや傑出したものでなくしてしまったつもりでいるのである。しかも妬みは、現に存在している傑出物に反抗するはかりでなく、またきたらんとする傑出物にも反抗するのだ》(キルケゴール「現代の批判」:『世界の名著 40 キルケゴール』(中央公論社)桝田啓三郎訳、p. 391)【続】