保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

森会長の辞任について(4) ~アンファン・テリブル~

《辞任に追い込んだのは、市民の声である》(2月13日付毎日新聞社説)

 <市民>が大きな声を挙げれば、自分たちが気に入らぬ権力者を放逐(ほうちく)出来るかのように考えるのは、フランス革命前夜にも似た危険極まりない発想である。社会は声の大きな者の勝ちなのか。それでは人類進歩の時計の針を逆戻しにすることにならないのか。

 平等を旨とする共産主義は、社会を「水平化」しようとするものである。それは価値あるものを差別の因と見て排撃し排除しようとする社会の「凡庸化」、「低俗化」に他ならない。

《具体的個人が消えうせると、マスコミが、大衆の世論という逃げ口上にかくれ、「普遍的教養」とか「人間平等」とかいう名目のもとに、「水平化」の運動をおしすすめる。水平化の運動は、優秀な者を引きずりおろして人間を平均化し、人間をただ数量的に評価されるだけのものに低俗化してしまう。こうして「個人性」のもつ質的な意義をぬきとられてしまって、人間の量的な集合を意味するにすぎない「社会性」の観念が流行し、ひとびとは、内容の空虚なこの流行理念にとびついて熱狂する。しかし、ひとりひとりが人格的な個人として人格的に交わるという、肝心なことが無視されてしまう》(工藤綏夫『人と思想 19 キルケゴール』(清水書院)、pp. 163-164)

《森氏の発言をめぐる一連の出来事は、異論に耳を貸さず、内輪の論理で動くことが多い日本社会の古い体質をもあぶり出した。

 男性中心の組織で、波風を立てず、問題が起きても目先の安定を優先する傾向が強い。その一端が明らかになった》(同、毎日社説)

 森氏の発言を一元的に解釈し、画一的に<女性蔑視>とすることの方が明らかに<異論に耳を貸さず、内輪の論理で動>いている。組織内の男女の「数」しか目に入らず、男性が多ければ女性差別と考えることこそが「性差別」なのだということに自ら気が付かない。

《この問題をきっかけに、日本社会の旧弊が改められ、多様な意見や立場の違う人々を尊重する共生への意識が高まることが期待される》(同)

 が、<多様な意見や立場の違う人々を尊重>しないのは毎日新聞の方ではないか。<多様な意見や立場の違う人々を尊重>するなら、病身を押して汗をかき泥をかぶる古老をここまで吊るし上げることなど出来るはずがない。

《群衆は、単純かつ極端な感情しか知らないから、暗示された意見や思想や信仰は、大雑把に受けいれられるか、斥(しりぞ)けられるかであり、そして、それらは、絶対的な真理と見なされるか、これまた絶対的な誤謬と見なされるかである。推理によって生じたのではなく、暗示によって生み出された信仰とは、常にこのようなものである》(ギュスターヴ・ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)、p. 64)

《新会長に求められるのは、男女平等などの理念の徹底と、そのための具体策だ。多様な人材が自由に発言できる環境整備も求められる。異論を封じる空気が支配した会議や密室での根回しでは、新たな発想は生まれない》(2月12日付日本経済新聞社説)

 東京五輪まで半年もないのに、すべてを一新しようなどと考えるのは、「アンファン・テリブル」(=時宜を得ない発言によって、年上の者を困惑させる子供)でしかない。【了】