保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「東大は東京になくてもいいじゃないか」という河野太郎大臣(2/2)

評価する物差しが「偏差値」しかないことは、大学側にも言えることである。詰まり、大学には、偏差値順位以外にこれと言って注目すべき特色が見られないということだ。このことは、教授陣にも言えることで、是非とも御指導を仰ぎたいと思わせるような実績や業績を持つ教授も見当たらない。

 だからこそ、大学自体が個性を取り戻すことが先決なのだ。これまでのように、入学した学生は、みんな「ところてん方式」で押し出して卒業させるというやり方では、学生の学力や専門性を高めることは期待できない。大学の指導力が問われることもないから、大学の特色を構成することもない。

 小中高には「総合的な学習の時間」(総合学習)の時間があり、「課題発見能力」、「課題解決能力」を身に付けることもまた目標とされている。が、このような高度な課題を小中高生に求めるのは筋違いであって、本来は大学生がこのような課題に取り組まねばならないはずである。が、大学入学後、学業ではなくキャンパスライフを楽しんでいるだけであるから、大学入試受験時が一番学力が高かったと回想されることもしばしばであり、就職に有利になるわけでもないのに、頑張って「課題発見能力」、「課題解決能力」を高めようと努力している大学生など稀有(けう)で奇特な存在だろう。

 何よりもまず大学自体が変わらなければならない。学力を高め、専門性を身に付けさせるのが大学の使命なのであり、学業と研究を疎(おろそ)かにする学生は卒業単位を与えないという厳しい指導が必要なのである。そういった学風を通して大学の特色が育まれ、「偏差値」以外の評価方法による大学選びもまた可能となるのではなかろうか。

 戦後日本人は「平等」という言葉に呪縛されてしまっている。何でもかんでも「平等」にしなければならないということになれば、下方平均化せざるを得ない。

《見よ、水平化の鋭い鎌が、すべての人々を、ひとりひとり別々に、刃にかけて殺してゆく》(キルケゴール「現代の批判」桝田啓三郎訳:『世界の名著40』(中央公論社)、p. 423)

 人より秀(ひい)で優れたものが「水平化の鎌」によって刈り取られてゆく。そのことによって「平等」は実現する。が、それは「凡庸」としか言い様のないものである。

 人々は最早、頑張って何か優れたものを作り出そうなどとは思わない。頑張ることは平等の精神に反するからである。優れたものが失われた社会は、人々を淀ませ、疲弊させる。それは、前世紀、ソ連邦という社会主義国家建設の実験が失敗に終わったことでも明らかだ。

 教育の地域格差を是正しなければならないと考えること自体が、平等主義という悪魔思想に呪縛されてしまっている証左である。【了】