保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「個人」とは何か(4) ~なぜ<個人>は尊重されるべきか~

憲法13条は、人権の章にある規定であるが、「個人の尊重」原理は、人権保障にとっての基底的原理であるというだけでなく、日本国憲法が採用するすべての価値の基底に置かれるべきものとして理解しなければならない。平和・人権・民主主義(あるいは国民主権)が日本国憲法の3大原理だというのは、誰でも知っていることだと思うが、この3つの原理は、それぞれ別個のものというより、「個人の尊重」という同じ根っこから派生している原理としてとらえるべきである》(浦部法穂(うらべ・のりほ)『全訂 憲法学教室』(日本評論社)、p. 40)

 つまり、<個人の尊重>が肝(きも)だということである。このことを大前提として近代法は編まれている。が、ここで改めて問おう。「個人」を尊重すべき理由は何か。

《「個人の尊重」とは、一人ひとりの人間を、自立した人格的存在として尊重する、ということであり、平たくいえば、要するに、「一人ひとりの人間を大事にする」ということである。それは、一人ひとりがそれぞれに固有の価値をもっている、という認識に立って、それぞれの人がもっているそれぞれの価値を等しく認めあっていこう、というものである。だから、ここでは、人はみな、一人ひとりが違う存在なのだ、というとらえ方が前提になる。違う存在だからこそ、たった一人であっても、その人の価値は、「代わり」のきかない、かけがえのないものであり、尊重されなければならない、ということになるのである。このことが、「人権」(=Human Rights=「人間として正しいこと」)における「正しさ」の基底的基準である》(同、pp. 40-41)

 が、私には<「代わり」のきかない、かけがえのないもの>だから尊重しなければならないという理屈が分からない。おそらく「博愛主義」よろしくそのように言っているのであろうが、それでは「循環論」にしかならないのではないか。

 社会から切り離された抽象的存在「個人」(individual)を尊重すべき理由、それは<個人>が人間だからなのか。が、それは、<人間>という存在は尊重されるべきだと言っているに過ぎず、<個人として尊重される>べき理由とはならない。結局、「先験的」(a priori)に「個人は尊重されるべきだ」と考えるしかないのではないか。

 世の中には様々な立場が存在するであろうから、そのような考え方の人達がいても構わない。が、それは日本国憲法に書きこんで固定化できるほど自明なことではない。集団主義的色合いの濃い日本社会の憲法典に個人主義を書き込んで日本改造を図るというのは野蛮であり横暴の極みではないか。【続】