保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

表現の自由と公共の福祉(2) ~宮沢俊義の屁理屈~

「公共の福祉」をどう見、どう考えるのか。

《この問題に対する答えは、だいたい次の2つの型に分れる。

 第1説は、(1)基本的人権は、公共の福祉のワク内で(すなわち、公共の福祉に反しないかぎり)、保障される、(2)したがって、基本的人権の行使が、公共の福祉に反する場合は、それは保障されない、と説く。憲法の条文としては、主として、第13条がその根拠とされる。この説によれば、第22条と第29条に特に公共の福祉という言葉があることの意味は、多かれ少なかれ、軽く考えられる》(宮澤俊義法律学全集4 憲法II[新版]』(有斐閣)、p. 219)

 大方の人がこのように考えると思われるが、憲法学者は理屈をこねて我が田に水を引こうとする。

《第2説は、(1)基本的人権の保障は、公共の福祉によって、制約されない、(2)したがって、公共の福祉に反する場合でも、基本的人権を制約することは許されない、と説く。この説は、(憲法第13条を単にプログラム的な性格を有するものと見るとともに、憲法第22条と第29条で特に「公共の福祉」を規定する場合にかぎり、基本的人権は公共の福祉のワク内で保障される、と考える》(同)

 それは、

憲法が第12条と第13条との一般的規定のほかに、第22条と第29条とで、特に公共の福祉という言葉を使っていることは、第1説にとっては、やや弱味と考えられる。もし第13条の公共の福祉が人権宣言のすべての人権の保障にかぶってくるならば、特に第22条と第29条とで、公共の福祉をいう必要があまりないからである。これに反して、第2説にとっては、これは非常な強味になる。第2説にとっては、第22条と第29条とに、わざわざ公共の福祉とことわってあることは、まさにそのほかの人権の規定について公共の福祉の制約のないことの根拠とされる》(同、pp. 219-220)

と言うのであるが、これはこじ付けもいいところである。

 22条、29条に重複して「公共の福祉」という文言が入っているのは、おそらくただ重複していることに気付かなかったからで、そこに深い意味を求めるようなものとは思われない。このことはGHQによって草案が書かれ、急拵(ごしら)え日本国憲法の制定過程を考えれば分かることである。推敲(すいこう)を重ね練られたものでないのであるから言葉の配置を深読みしても始まらない。

《公共の福祉およびそれに類する言葉には、多かれ少なかれ全体主義的ないし超個人主義的な意味が伝統的に伴いがちであるが、もちろん日本国憲法における公共の福祉にそういう意味をみとめることは、許されない。日本国憲法における公共の福祉という言葉のコンテクストは、明らかに自由国家的・社会国家的国家観に支配されたものであり、「人間性」の尊重をその最高の指導理念とする。ここには、特定の個人の利益ないし価値を超えた利益ないし価値はあるが、すべての個人に優先する「全体」の利益ないし価値というようなものは存しない。

 かように考えると、日本国憲法にいう公共の福祉とは、さきに説明されたような、人権相互のあいだの矛盾・衝突を調整する原理としての実質的公平の原理を意味すると解するのが、憲法の各規定を綜合的に見た場合に、いちばん妥当だと考えられる》(同、p. 235)

 <「人間性」の尊重をその最高の指導理念とする>などというのは宮沢氏の勝手である。この問題はそもそも「憲法とは何か」から説き起こさねばならないが、歴史・伝統に裏打ちされた個人と社会の平衡こそが「秩序」の源泉であると考えるなら、「公共の福祉」を人権相互の調整原理として考えるなどということは出来ない相談である。【続】