保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

表現の自由と公共の福祉(1)

《暴力的な威嚇や政治権力の圧力が、自由な表現を脅かす。あってはならない出来事が、昨年は社会に波紋を広げた。

 あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」が代表例であり、一時中止に追い込まれたうえ、文化庁補助金の交付をやめた。その後、各地の美術展や映画祭、在外公館の行事でも計画変更などが続いた。

 同時期に、文化庁所管の日本芸術文化振興会は、助成対象を狭める要綱改正をした。

 文化関係者や市民から批判と懸念の声が収まらないのは当然だろう》(116日付朝日新聞社説)

 朝日社説子は<あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」>が一時中止に追い込まれたことを唯我独尊<あってはならない出来事>と言う。が、日本国憲法には次のような条文がある。

12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 <あいちトリエンナーレ>の「昭和天皇御真影を燃やし灰を足で踏み付ける作品」や「間抜けな日本人の墓と称する特攻隊の寄せ書きを被せた祠(ほこら)」は、果たして<表現の自由>の濫用に当たらないのか、つまり、公共の福祉に反するものではないのかということである。一般常識的にはこれらの「作品」(?)は<あってはならない>ものである。

 これらが私的な場で勝手に展示されるのであれば口を挟むところのものではない。が、実際は、公的な施設で、公的な催し物として展示され、公的資金援助が得られるというものであったから問題視されたのである。朝日が護憲派であるなら、12条に即して立論し反論すべきである。

《芸術家の感性が社会に多様な視点を与え、ひいては寛容さと豊かさを育む力になりうる》(同)

 その通りだ。<なりうる>とは「可能性がある」ということであり「成る」ということではない。

 もう1つ指摘すべきは、果たして<あいちトリエンナーレ>の作品を作った人物たちを<芸術家>と呼べるのかということである。彼らは<芸術家>の仮面をかぶった単なる<無政府主義者>や<破壊主義者>ではないのかとの疑いが濃い。

 <無政府主義者>や<破壊主義者>は作品を作るなと言いたいのではない。その作品を無条件で<芸術>と見做すのではなく、公共の福祉に沿ったものかどうかを判断する必要もあるだろうと思うだけである。

《昨年の国際芸術祭、あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」の展示中止に端的に表れた。

 原因は、相いれない表現を排除しようとする多数の抗議だ。その分断に乗じて、政治家が一方に肩入れする形で介入した。

 社会の中で一方が他方の権利を力ずくで奪ったり、政治家が異論を排除して物事を進めるようでは、民主主義は成り立たない。

 国民が主役の社会であるためにも、価値の多様性を認め合い、表現の自由を確保する必要がある》(16日付北海道新聞社説)

 企画自体が<多数の抗議>を引き起こすものだったのである。当たり前だ。昭和天皇や特攻隊員を虚仮(こけ)にするような非常識な展示の存在を国民が知れば、黙っておられるはずがない。政治家の介入も、そもそもこの展示を大村秀章愛知県知事が容認しており、これに異を唱えた河村たかし名古屋市長だけを問題視するのは公平性を欠く。

 <国民が主役の社会であるためにも…表現の自由を確保する必要がある>というのも間違っている。もし自由が無制限となれば、社会を破壊しかねない。だからこそ自由は<公共の福祉>に沿ったものでなければならないのである。【続】