保守論客の独り言

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「表現の不自由展」再開について(3) ~「公共の福祉に反する自由」は認められない~

《本質的な反省を伴わない再開の強行である。批判は免れまい。

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が再開された。昭和天皇の肖像を燃やす動画や、慰安婦を象徴する少女像を展示して中止となっていた》(109日付産經新聞主張)

 他紙が「表現の不自由展」の再開を脅迫に屈しない姿勢を示したと評価しているのとは正反対の意見である。また、<昭和天皇の肖像を燃やす動画>についても提示している点で産經は他紙と一線を画している。

《再開された8日は、警備を強化し、入場人数も制限された。しかし展示内容は変わっていない。脅迫は論外としても、広範囲に起こった批判を実行委員会が真剣に受け止めたとは思えない。

 昭和天皇の肖像を燃やす動画の展示などは、日本へのヘイト(憎悪)そのものである。なぜ多くの人が憤ったか。あまりに軽く考えてはいないか》(同)

 国民を舐めているとしか言い様がない。「表現の自由」に守られているから何をやっても構わないかのような態度は、「自由」の行使に必要な「責任」の意識があるとは思われない。

《企画展再開を支持する側は、憲法21条が定めた表現の自由を引き合いに出す。しかし12条は「国民は自由と権利を濫用(らんよう)してはならず公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」としている。

 日本の象徴である天皇の肖像を燃やし展示することは、公共性を破壊する反社会的行為である。少女像は韓国が史実を誇張、捏造(ねつぞう)して日本非難の宣伝に使ってきた。やはり日本への悪意がある》(同)

 抑制のない「自由」は過剰となって「放恣(ほうし)」「放縦(ほうじゅう)」へと陥りかねない。まさに今回の事案がそうである。言い換えれば、「自由」は社会秩序を乱さない範囲において認められる。つまり、「自由」の行使は「秩序ある自由」でなければならないということである。

《再開にこぎ着けた意味は小さくない。一連の経緯は、日本での表現活動が置かれている「不自由さ」を図らずも示した。憲法で認められた「表現の自由」について考え直す機会となったことは間違いない》(109日付京都新聞社説)

 <一連の経緯は、日本での表現活動が置かれている「不自由さ」を図らずも示した>のではない。作品群が「公共の福祉」に反するものであったから問題となったのである。「公共の福祉」という制約があることを<不自由>といえばそうであろう。が、人が社会で生きていく限りにおいて、「何の制約もない自由」などというものがないのは言うまでもない。

 つまり、「公序良俗に反する自由」は認められないということである。勿論、何をもって公序良俗に反するのかについての議論はあってよい。【了】