保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

日本国憲法生誕とルソーの教え(3) ~一般意志~

ルソーは、<一般意志>は、

《つねに正しく、つねに公けの利益を目ざす》(ルソー『社会契約論』(岩波文庫桑原武夫・前川貞次郎訳、p.46

と言う。が、この世に<つねに正しい>ものなど存在するのだろうか。<つねに正しい>ものがあるとすれば、それこそ危険であろう。

《人民が十分に情報をもって審議するとき、もし市民がお互いに意志を少しも伝えあわないなら「徒党をくむなどのことがなければ」、わずかの相違がたくさん集って、つねに一般意志が結集し、その決議はつねによいものであるだろう。

しかし、徒党、部分的団体が、大きい団体を犠牲にしてつくられるならば、これらの団体の各々の意志は、その成員に関しては一般的で、国家に関しては特殊的なものになる。その場合には、もはや人々と同じ数だけの投票者があるのではなくて、団体と同じ数だけの投票者があるにすぎないといえよう。

相違の数はより少なくなり、より少なく一般的な結果をもたらす。ついには、これらの団体の一つが、きわめて大きくなって、他のすべての団体を圧倒するようになると、その結果は、もはやさまざまのわずかな相違の総和ではなく、たった一つだけの相違があることになる。そうなれば、もはや一般意志は存在せず、また、優勢を占める意見は、特殊的な意見であるにすぎない。

 だから、一般意志が十分に表明されるためには、国家のうちに部分的社会が存在せず、各々の市民が自分自身の意見だけをいうことが重要である》(同、pp. 47-48

 が、国家と個人の間に家庭、地域共同体、職場といった中間社会が存在せず、市民がばらばらに存在するなどということも有り得やしない。

《すべての人が、自分の問題でもあり、全員の問題でもあると考える事項があり、そこに「一般意志」が成り立つ。そこでこの一般意志を主権として、すべての人がこの主権に服することによって社会が成立する…

一般意志において、個々人は、個人であると同時に全体でもあるのだ。一般意志とは、いわば、すべての人の背骨を貫通する何かであり、したがって、一般意志に服することは、自分自身にのみ服することであると同時に、全体に服することでもある。

こうして、あくまで個人という次元を失わずに、しかも個人は全体に結び付けられる…この時、「各人は自己をすべての人に与えて、しかも誰にも自己を与えない」というアクロバットが可能となる。

こうして個人は自由であるとともに、ひとつの共同体をつくる。つまり、個々人は「共同の自我」となる》(佐伯啓思『現代民主主義の病理』(日本放送出版協会)、pp. 158-159

 無理をすればこのような解釈も可能なのかもしれない。が、私には「詭弁」(きべん)にしか思われない。非現実的な空想と言ってもよい。​【続】​