保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

有名芸能人の相次ぐ自殺を考える(3) ~自己本位的自殺~

《自殺の第一の形態(自己本位的自殺)…その特徴は、行動への活力を弱める憂鬱なもの思わしさにある。事業、公職、有益な仕事、そして家庭の義務ですら、彼を、ただ無関心とよそよそしい感情にいざなうばかりである。

彼にとっては、自分自身の外へ出ていくのがいとわしい。その代わり、思索と内面的生活のなかで、活動力において失われていたものがすべて回復される。意識は、周囲のものをすべて遠ざけ、みずからについて反省をめぐらし、自己をその固有の唯一の対象とし、これを観察し、分析することをもっぱらのつとめとする。

しかし、この極端な自己集中の結果、意識は、みずからと自余の宇宙のあいだを隔てているみぞをいっそう深くうがつばかりである。個人がこの点で自分自身の虜となるや否や、彼はひたすら、自分自身でないすべてのものから身を遠ざけるようになり、さらにその状態を強めることによって自分をつつむ孤独の状態を確立する》(デュルケーム『自殺論』:『世界の名著 47』(中央公論社宮島喬訳、p. 242)

 <自己本位的自殺>とは、日常の<憂鬱>の中で、反省を巡らす個人が社会から孤立していくことによって起こる。

《個人が伝統的信仰や共同体の支配から自由になり、自律性を獲得し、個人化していくのは必然的な趨勢(すうせい)である。しかし、この近代社会にあって、そうした諸個人を参加させ、適切な心理的な支えをあたえうるようなあらたな集団的環境がつくられなければ、個人化の進行は、自由でありつつ孤独であるような原子化された個人を生みだすばかりであろう》(宮島喬『デュルケム 自殺論』(有斐閣新書)、p. 95)

 自由は孤独である。我々はどれほどこの孤独に耐えることが出来るのだろうか。

《欲求がたんに個人だけにもとづいているかぎり、けっきょく、それは、際限のない欲求となってしまう。人間の感性は、それを規制しているいっさいの外部的な力をとりきってしまえば、それ自体では、なにものも埋めることのできない底なしの深淵である。

 そうであるとすれば、外部から抑制するものがないかぎり、われわれの感性そのものはおよそ苦悩の源泉でしかありえない。というのは、かぎりなき欲望というものは、そもそもその意味からして、満たされるはずのないものであり、この飽くことを知らないということは、病的性質の一徴侯とみなすことができるからである。

限界を画すものがない以上、欲望はつねに、そして無際限に、みずからの按配(あんばい)した手段をこえてしまう。こうなると、なにものもその欲望を和らげてはくれまい。やみがたい渇(かわ)きは、つねに新たにおそってくる責苦である》(デュルケーム、同、p. 204)【続】