保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

日本国憲法生誕とルソーの教え(1) ~『社会契約論』~

《18世紀の哲学者ルソーの教えでは、戦争とは相手国の社会契約に対する攻撃です。つまり敗戦国は従前の社会契約を破棄し、新しい原理の社会契約を国民との間で結び直さねばなりません。

 それが新憲法をつくる意義です。なのに日本側は「伝統的な原理および古い習慣に固執」(民政局報告書)していたから、GHQは極東委員会の開催を前に、しびれをきらしたのです》(5月3日付東京新聞社説)

 確かに戦後体制構築にあたっては、「フランス革命の父」と呼ばれたジャン=ジャック・ルソーの思想が反映されたように思われる。日本は戦争に敗れた。だからそれまでの日本を変え、新たなる原理「日本国憲法」が導入されることとなったのである。

フランス革命を主導することとなったロベスピエールらのジャコバン派は、みずからの思想的正当性をルソーの『社会契約論』に求めた。

 ルソーは現存する「文明」に大いなる堕落を看て取って、「自然に還れ」という標語の下に…人間性の良き根源に立ち帰ろうとした。その方向で国家の形態を再構築せよと主張したのが『社会契約論』であり、そこで人間性の根源が「一般意志」と名づけられている。

 つまり、一般意志にもとづく(おそらくは全員一致の)自発的な社会契約、それが良い国家形態の根本条件だというのである。一般意志はあくまで仮構に属するのであって、実際に観察されるものとしての全体意志は特定の個人や集団―たとえばロベスピエールジャコバン派―の個別意志が社会の全体を支配したことの現れにすぎない。

 だから、ジャコバン派が一般意志の体現者を僭称してギロチン粛清などの形で独裁を行ったことをルソーの責に帰するのは、『社会契約論』の誤読だということもできる。しかし一般意志を多少とも経験的な裏付けを有した理論の「前提」となすためには、文明の歴史のなかにその根拠を見出さなければならない。

 ルソーにあってそうした歴史的考察が微弱であったのは確かである》(西部邁『学問』(講談社)、pp. 308-309

 <一般意志>というものをどのように理解するかによって、ルソー思想の意味合いは大きく異なってくるだろう。が、少なくとも言えることは、これはあくまでも仮構の話に属するものであって、これを現実世界に安易に持ち込むことは危険だということである。フランス革命暴走の問題点もそこにある。

《ルソーの国家論は、民衆主権主義を唱導するためにその主権の根拠を一般意志に求める、という理路に立っていた。

 しかし歴史に文明の堕落をみてしまったからには、その民衆は、歴史を担う者としてのナショナル・ピープル(国民)ではなく、脱歴史的な単なる裸のピープル(人民)に近づかざるをえなかった。

 その意味では、確かに、ルソーの理論は人民主権主義の名による、それゆえ人民の代表を名乗る党派のイデオロギーによる、(権力にもとづく)全体主義や(人気にもとづく)権威主義を助長するものだといえよう。

 しかし、一般意志をその国民のナショナル・アイデンティティと解釈しうる可能性もけっして小さくないのであるから、ルソーを「全体主義の始祖」として排撃するのは個人主義のがわにおける一種の恐怖症の現れだとみることもできる》(同、p. 310​【続】​