保守論客の独り言

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東海第二原発再稼働の賛否を問う県民投票条例案否決について(1)

日本原子力発電東海第二原発再稼働の賛否を問う県民投票条例案が、茨城県議会で否決された。立地県レベルでは、静岡、新潟、宮城に続く門前払い。どうすればより広く民意を反映できるのか》(6月24日付東京新聞社説)

 <民意>とは何か。県会議員は選挙によって選ばれている。したがって、県会議員の賛否は間接的ではあれ民意を反映したものと考えるのが筋である。が、社説子はそうは考えない。そこには間接民主制への不信があるのだろう。

《イギリス人民は自由だと自分では考えているが、それはとんでもない誤解である。彼らが自由なのも、議会の構成員を選挙する期間中だけのことで、選挙が終わってしまえばたちまち奴隷の身となり、なきに等しい存在となるのである。イギリス人民が自由を許されたこの短い期間中でも、その自由を行使するしかたを見ると、これでは自由を失うのももっともだと思われる》(ルソー『社会契約論』(中公文庫)井上幸治訳、p. 126)

 社説子の言う<民意>とは、民意は民意でも「再稼働反対の民意」であり、一面的な民意でしかない。当たり前だが、民意には原発再稼働賛成もあれば反対もある。再稼働反対だけが<民意>であるかのように言うのだとすれば、それは間違いである。

《否決が続く背景には、議会側の抵抗感があるという。議員は民意で選ばれており、あらためて「投票」をする必要はない、ということらしい。しかし、選挙の結果は4年間の「白紙委任」ではないはずだ。その時々の民意を反映させる意義は小さくないだろう》(6月16日付東京新聞社説)

 原発再稼働の是非は国家のエネルギー安全保障に関わることであり、住民投票で決められるものではないし、決めるべきでもない。

《「原発は国策だから国が決めることだ」と否定した知事もいた。だからといって、地方議会が沈黙すべき道理はない》(同)

 だから県議会で賛否が採られたのである。

 ここで気になるのが<選挙の結果は4年間の「白紙委任」ではない>という件(くだり)である。要は、間接民主制の否定であり、直接民主制への回帰願望である。

《人民は代表者をもつやいなや、もはや自由ではなくなり、もはや人民として存在しなくなるのである》(ルソー、同、p. 129)

 が、現在のような複雑多岐に渡る、庶民の日常とはかけ離れた高度な政治案件を素人が直感的に判断を下せるはずがない。判断するのには博い知識が要るだろうし、十分な情報も必要となろう。時間も掛かる。素人が安易な気持ちで関わっても責任が負えないのである。【続】