保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

敗戦記念日社説:孤軍奮闘する朝日新聞(1) ~戦後思潮の過ち~

今年の「敗戦記念日」の各紙社説はいよいよネタが尽きた感が強い。読むに値する情報がない。

 そんな中、朝日新聞だけは、褒めるのも変な話ではあるが、しっかり独自路線を貫いている。

《戦後の日本が憲法を手にめざしたのは、国民が主権を行使し、個人が等しく尊重される社会の実現だった。だが不平等はさまざまな形で残り、新たな矛盾も生み出されている》(8月15日付朝日新聞社説)

 確かに日本国憲法には、「国民主権」(1条)、「個人の尊重」(13条)が謳(うた)われている。また、フランス革命を模し「自由」「平等」「博愛」が新たに追求されるべき価値とされたのが戦後というものであった。が、このような上辺だけの「粉飾」が日本をおかしくしてしまったのであり、そもそもの誤りであったのである。

《「結果の平等」が悪しき平等主義にすぎないということは、少くとも思想の水準では、広く認識されている。そして「機会の平等」は良き平等主義なのだと認定されつづけている。しかし実現可能なものでなければ機会とよんでも仕様がないという判断が強烈にはたらき、機会を実質あらしめるためには「結果の平等」が必要だという筋道にはまる。あるいは「機会の平等」を空想ではなく現実のものとして語るために、人間の能力が本来的に平等であるという嘘話を拵(こしら)え、それが不平等であるのはこの世に抑圧や強制があるためだという理路を辿って、結局は「結果の平等」に転落するのである。

「結果の平等」が悪いものであるのは、それが人間の能力差に配慮せず、そのために諸個人が能力を自由に発揮して世俗的達成や倫理的達成を得ることが難しくなるからばかりではない。むしろ逆なのだ。「結果の平等」がどれほど普及しようとも、人間には不幸が、あるいは理想の未充足が、つきものだ。そこからくる不安や不満を解消するにはどうしたらいいか。その不幸を自己の運命的能力の限界によるものとみなさないのが通常のやり方である。そうである以上、「結果の平等」がまだ完全なものになっていないせいだとするしかない。つまり、平等に近づけば近づくほど、まだ残る不平等にたいして過敏反応を起こすのが平等主義の常である。平等への接近が不平等感の温床となる、これを平等主義のパラドックスという。

「機会の平等」という主張に意味があるのは、能力差以外のものによる機会の封殺が常態化している場合にかぎられる。人間の世俗的および倫理的な達成が主として諸個人の能力によるといった状態になったら、「法の下にあっては能力差以外の差別はしない」ということで十分なのである。そこに誤解と堕落を招きやすい平等という語彙を登場させる必要は毫(ごう)もない》(西部邁『白昼への意志』(中央公論社)、pp. 238-239​【続】​