《広島はきょう、長崎は9日に「原爆の日」を迎える。
1945年夏、2度にわたる米軍の原子爆弾投下により、20万人を超える市民が犠牲になった。放射線を浴びた多くの人が今なお健康被害に苦しむ。
惨禍の記憶を次世代に伝え、二度と核兵器が使われない世界をつくる。その思いと願いを再確認する日である》(8月6日付毎日新聞社説)
<二度と核兵器が使われない>ようにしたいのなら、毎日新聞の読者にではなく、核保有国に言ってもらえないだろうか。日本人が<惨禍の記憶を次世代に伝え>たところで、何も変わらない。こんな欺瞞(ぎまん)をいつまで続ければ気が済むのか。
《新型コロナウイルス流行の厳しい状況下にあっても、被爆の悲惨な記憶を継承する取り組みは、変わることなく進めていかなければならない》(8月6日付読売新聞社説)
どうして<被爆の悲惨な記憶を継承する取り組みは、変わることなく進めていかなければならない>のかが分からない。日本人が被曝の記憶を継承するだけで何がどう変わると言うのだろうか。そんなことで変わるのなら、76年も経っているのだから、とっくの昔に変わっていてもおかしくはない。
《平和の祭典である五輪も開催中である。平和への思いが広く共有されるよう、発信に努めたい》(同)
ちょっと何を言っているのか分からない。読売社説子は現実から逃避し、夢でも見ているのだろうか。
《まずは、核兵器を保有する北朝鮮や、保有が懸念されるイランに核を断念させ、核保有国を含めて建設的な形で軍縮協議を進めることが肝要である。
そうした現実的な努力を主導することが、唯一の被爆国であり、今も核兵器を保有する国に囲まれている日本の責務と言えよう》(同)
北朝鮮やイランに核を断念させ、軍縮協議を進めることがどれほど難しいことか分かっていないのか。むしろこれは、平和を主張する自分の姿に酔い痴れた、限りなく「非現実的」な提案だと言うべきである。
また、しばしば日本には<唯一の被爆国>であるから核軍縮を先導する<責務>があると言うのであるが、被害者の日本に核軍縮を要望する「権利」はあっても<責務>はない。ただこのような「倒錯」に陥っているのは読売だけではない。
《広島や長崎の悲劇を世界に伝え続けることは責務であり、日本を最初で最後の被爆国とすることは使命である。そして理想のみに頼らず流されず、現実的見地に立って平和を追求し続ける覚悟が必要だ。被爆国である日本が条約に加盟しない理由こそ、世界の核の現実である》(8月6日付産經新聞主張)
私はこの<責務>だの<使命>だのといった言葉に非常に違和感がある。まして産經までが現実から目を逸らし、<平和を追求し続ける>などと言っていることに絶望し、悲しみを禁じ得ない。【続】