保守論客の独り言

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戦後日本の「ナショナル・ルサンチマン」(1) ~ルサンチマンが生んだ戦後日本の平和主義~

ルサンチマンとは外のもの、他のもの、自己でないものに対して否と言うとき、外へと向かうべき真の反応、つまり行為による反応が自己自身の無力さから拒まれているために、価値を定める眼ざしを逆転させ、想像上の復讐によってだけその埋め合わせをつけようとする根本的に反動的な心理的態度である。(渡邊二郎/西尾幹二編『ニーチェを知る事典』(ちくま学芸文庫)、pp. 439-440)

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《人間は喧嘩をして、負けて、そのまま素直に自分が悪かったと思う者はいない。復讐心を抱かない者はいない。これは国家や国民の次元でも同じである。しかも徹底的に痛めつけられた敗者は素直な復讐心を抱かない。裏返された内攻的復讐心、すなわちルサンチマンを抱きがちである》(西尾幹二「日本のルサンチマン」:『沈黙する歴史』(徳間書店)、p. 275

 この西尾氏の文は余りにも粗雑に思われる。<人間は喧嘩をして、負けて、そのまま素直に自分が悪かったと思う者はいない>と言うが、喧嘩の勝ち負けが善悪を決めるのではない。喧嘩に勝とうが負けようが事の善悪は変わらない。

 米国が第二次大戦に参加するための口実作りとして日本を戦争へと追い込み最初の一撃を撃たせた英米を我々は許せやしない。まして、原爆使用という戦争犯罪を許せと言われても許せるはずがない。

《日本という国家の戦後史に渦巻いたアメリカや西欧文明に対するルサンチマンも、やはりねじくれ、手がこんでいた。いかにもアメリカの言うことを開いているような顔をして実際には言うことを聞かないナショナル・プライドの発揮の仕方というものがある。日本人はその手段としてふたつのものを利用した。すなわち平和憲法と経済力である》(同)

 戦後日本は「国家の平和」と「個人の命」を第一とし、「復讐心」を心の奥底に仕舞い込んだ。そのことによって「矜持(きょうじ)」や「勇気」といった「徳」(virtue)は失われた。

《復讐できない無力さを「善さ」へ、臆病な卑劣さを「謙虚」へ、憎悪する相手への服従を「恭順」へ、弱者の臆病さそのものを「忍耐」へ、復讐することができないのを「寛恕(かんじょ)」や「敵への愛」へ、さらにこれらすべてを現世の不幸という代価で支払われるベき「至福」へと改造する。こうして現世での復讐は「最後の審判」という観念上の復讐に改造され、その日が訪れるまで「信仰」「愛」「希望」に生きつづければ「神の国」が到来すると宣(の)べ伝えるのである》(『ニーチェを知る事典』、pp. 443-444

 原爆投下や大都市絨毯爆撃による無辜(むこ)の民の大量殺戮という大罪を犯した米国に対し<復讐>することが能(あた)わない。この<復讐できない無力さ>が反転し、「平和の尊さ」と「命の大切さ」を訴える「奴隷道徳」となったのである。【続】