保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

戦後日本の「ナショナル・ルサンチマン」(2) ~平和という奴隷道徳~

《(平和憲法と経済力)どちらもがルサンチマンのはけ口であったがゆえに、自己制御が不可能なまでに強力でありつづけ、今も強力である。これあるがゆえに日本人は自分で自分を不自由にしている。しかし、このどちらもがアメリカの言うがままにならないためのナショナル・ルサンチマンの手段として、もはや簡単に捨てることができなくなってしまっていて、自分で自分を苦しめ、あえいでいる》(西尾幹二「日本のルサンチマン」:『沈黙する歴史』(徳間書店)、pp. 275-276)

 <平和>は、米国への復讐が叶わない<ルサンチマン(怨恨)>を反転させた「奴隷道徳」である。戦後日本はこの<奴隷道徳>によって「自縄自縛」に陥り、身動きが取れなくなってしまっているのである。

《われわれはそろそろ自己自身から解放される必要がある。政治、経済、外交、軍事の4つの車輪が平均した大きさで、車は初めて前へ動く。経済の車輪ばかりが大きすぎて、他の3つが小さいこの事を動かすには、アメリカというジャッキが後ろから後輪を持ち上げ押してくれなければならない。われわれはアメリカに復讐しているつもりで、結局はひきつづき依存している状況を変えることができないでいる》(同、p. 276

 外交、軍事も大きくは政治であるから、私なら「政治」(権力)、「経済」(貨幣)、「宗教」(価値)、「文化」(象徴)を<4つの車輪>と考えるだろうか。

 西尾氏が指摘するように、経済(金儲け)に突出した国家運営は確かに危うい。「平和主義」によって政治が縮退し、「グローバリズム」によって価値が相対化され、文化が混淆(こんこう)する。結果、政治が決断を下せなくなり、「虚無主義」(nihilism)が蔓延する。

ニヒリズムは「ない」(ニヒル)ということであって、何がないのかといえば、真の基準も善の基準も美の基準もないということだ》(西部邁『学問』(講談社):80 虚無、p. 261

 「絶対的基準」を認めない、認めたくないというのが自意識が肥大化した現代人の趨勢(すうせい)である。「絶対的基準」を認めないということは価値が相対化するということを意味する。つまり、基準も価値も人それぞれということになる。が、それでは社会は成り立たない。

 参考までに英哲学者デイビッド・ヒュームのconvention論を挙げておこう。

This convention is not of the nature of a promise: For even promises themselves, as we shall see afterwards, arise from human conventions. It is only a general sense of common interest; which sense all the members of the society express to one another, and which induces them to regulate their conduct by certain rules. I observe, that it will be for my interest to leave another in the possession of his goods, provided he will act in the same manner with regard to me. He is sensible of a like interest in the regulation of his conduct. When this common sense of interest is mutually expressed, and is known to both, it produces a suitable resolution and behaviour. And this may properly enough be called a convention or agreement betwixt us, though without the interposition of a promise; since the actions of each of us have a reference to those of the other, and are performed upon the supposition, that something is to be performed on the other part. --

A TREATISE OF HUMAN NATURE: PART II: SECT. I JUSTICE, WHETHER A NATURAL OR ARTIFICIAL VIRTUE?

この慣習は、約束の性質をもつものではない。というのは、約束自体さえ、後に見るように、人の慣習から生じるものだからである。慣習は共通の利益に関する一般的感覚にすぎず、その感覚を社会のすべての構成員が互いに表明し合い、自分たちの行動を一定の規則によって規制するよう促す。他人が私に対して同じように行動してくれるのであれば、その人が自分の物を所持したままにしておくことが私の利益になるだろう。その人も自分の行動を規制することに同様の利益があると感じている。この共通の利益意識が互いに表明され、双方に知られていれば、解決策と行動は適切なものとなる。そしてこれは、約束は介在しないけれども、私たちのそれぞれの行動は相手の行動に関係し、相手側で何かが実行されるという仮定のもとに実行されるから、双方の慣習や合意と呼ぶのが相応しいだろう。​【了】​