保守論客の独り言

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川辺川ダム建設容認に難色を示す無責任(2) ~政治は結果責任~

《国は今回、ダムがあれば浸水は6割減ると試算した。推進したい国の試算は過大になりがちだ。

一方、ダム中止を受けて検討した複数の代替策は、事業費が最大1兆円を超え、工期も50年以上とされたことから具体化できずにいる。これらの試算も妥当なのか、改めて詳細に検証すべきだ》(11月19日付日本経済新聞社説)

 試算等が少々変更になったとしても、ダム建設再開という結論は変わり様がない。今更何を言っているのだろう。見苦しいにも程(ほど)がある。

《未曽有の水害が相次ぐ中、国は流域治水という考え方を打ち出している。住宅の移転や避難の迅速化などハード、ソフトの対策を総動員し、住民や企業にも防災意識の徹底を求める取り組みだ。

ダムの是非はこれらの効果もみてから判断しても遅くない。逆に今回の方針で「ダムがあれば安心」との空気が広がれば総力戦が必要な流域治水を妨げかねない》(同)

 <流域治水>は、ダムという<ハード>が前提であり、ダムなしの<流域治水>の効果など判断の仕様もない。また、

《今夏の豪雨災害の検証で国は、ダムが完成していれば浸水面積を6割減らせた地域があると推計しつつ、被害を完全には防げなかったと認めた。ダムも万能ではないと肝に銘ずべき》(11月21日付朝日新聞社説)

なのは当たり前のことであり、<ダムがあれば安心>などという話がどこから出て来るのか不思議である。

《知事は方針転換の理由に、かつてはダムを不要としていた民意の変化を挙げた。(中略)。長期的に地域の持続に必要な対策を見極めるには、時間という要素も重要なのではないか》(同、日経社説)

 それを言うなら、<脱ダム>の判断も同じではないか。<脱ダム>も時の民意であり、<脱ダム>の判断が誤りだったことが今回の水害によって明らかになったのだから、こんな無責任なことを言うのは大概にして欲しい。

 政治は結果責任である。ダム建設を中止し、そのために被害を拡大してしまった結果責任を抜きにして新たな話を進めるわけにはいかない。

《川辺川ダム計画は、清流の保全を求める地元の反対などを受け蒲島知事が2008年に白紙撤回。翌年「コンクリートから人へ」を掲げた当時の民主党政権が中止を決め、政権交代の象徴とされた。

 しかし、河道掘削をはじめ多様な代案を検討したその後の協議は、流域自治体の利害調整が難航するなどしてまとまらなかった》(11月20日付北海道新聞社説)

 <まとまらなかった>では済まない。これでは、<脱ダム>は非現実的妄想だったということを言っているだけではないか。

《12年の歳月がありながら対案を示せなかった責任は免れない。国と関係自治体の協議会では、川の流量を増やす河道掘削や堤防かさ上げなどを検討したものの、工期の長さや事業費の巨額さから行き詰まっていた。数年単位で実施できる事業を重ねるという現実的な思考を欠いていなかったか、行政全体が問われる問題である》(同、朝日社説)​【続】​