保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

川辺川ダム建設容認に難色を示す無責任(1) ~脱ダム病~

《7月の豪雨で氾濫した熊本県球磨川を巡り、蒲島郁夫知事は支流での川辺川ダム建設の容認を近く表明する見通しという。

 流域の住民の間で賛否は分かれている。ダムについて一定の効果が示される一方で、専門家から異論も出ている。

 結論を急がず、もっと住民や専門家を交えて協議を重ねるべきではないか》(11月14日付京都新聞社説)

 一体この悠長さは何なのだろう。

《7月豪雨によって、県内で65人が死亡、球磨川流域での浸水戸数は6千を超す》(同)

被害が出ているのにである。なのに、どうしてダム建設に待ったを掛けるのか、その神経が分からない。

 川辺川ダムが予定通り建設されていたら助かった命も多かっただろうし、被害も相当抑えられたに違いない。そのことに知らん顔して未だにダム建設を渋るのは、もはや「ごろつき」の域に達している。

 が、同様の指摘は他紙にも見られる。

《拙速の印象が拭えない判断である…一日も早い対策を求める地元の気持ちはわかる。だが、被災の記憶が覚めやらぬうちに長期にわたる対策の是非を判断すると、将来に禍根を残すというのが多くの災害で得た教訓だ。人口減少などを十分に考慮できないためだ。川辺川ダムの是非は総合的に検証したうえで結論を出すべきである》(11月19日付日本経済新聞社説)

 長期的に人口の減少が見込まれるのならば、ダムは造らなくてよいとでも言いたいのか。そこまで言って、人命よりも環境を守りたいのはどうしてなのか。このような独善的な意見を聞くと、私はチェスタトンの次の一節を思い起こしてしまう。

《狂人のことを理性を失った人というのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆるものを失った人である》(「気ちがい病院からの出発」:『G.K.チェスタトン著作集1 正統とは何か』(春秋社)福田恆存安西徹雄訳、p. 23)

《ダムの防災効果には限界も指摘される。これを機にダム推進論に一気に傾くのは危うい》(11月21日付南日本新聞社説)

 ダムだけで治水を行おうというわけではないのに、どうしてダム建設が<危うい>のか。

《看板政策だった「ダムによらない治水」からの転換だが、「コンクリートへの回帰」ではない》(11月21日付東京新聞社説)

と言うに至っては、何に対して弁明しているのか分からず、「神経症」すら疑われる。

 おそらく2009年の政権交代の際、民主党が「コンクリートから人へ」と言っていたのを支持したのが誤りだったと認めたくないということなのだろうが、「脱ダム」宣言自体が誤りだったことは八ッ場ダムにおいても実証されているのだから、今さら<「コンクリートへの回帰」ではない>などと言い訳しても詮無きことである。【続】