保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

大阪都構想再否決について(3) ~大改革よりも小改革の積み重ね~

私はまた先月のブログで、大阪が復興するためには、「大阪都構想」のように側(がわ)だけを変えても駄目であって、本質的には大阪に住む人たち自身が変わらなければならないと指摘した。

 が、残念ながら反対派の側も「側」だけの議論に陥ってしまっている。

自民党中山泰秀防衛副大臣は1日、産経新聞の取材に「多くの大阪市民が訴えに耳を傾けてくれた。政令市が大阪の成長に欠かせないと市民が判断した」と述べた。そのうえで、「新型コロナウイルス対応の最中に政治的な主張を続けたことに疑問符がついた。(大阪維新の会の)『オウンゴール』だ」と語った》(産経ニュース2020.11.1 23:46)

 大阪市を廃止すれば成長するのか、存続させれば成長するのかというのは、中身のない「側」だけの議論である。こんなことで大阪が再生されるはずがないではないか。

 大阪を立て直すという大事業は一部の人間が勢いに任せてやるようなものではないし、実際やれもしない。出来るだけ多くの人々の応援が必要となる。

Society is indeed a contract. Subordinate contracts for objects of mere occasional interest may be dissolved at pleasure—but the state ought not to be considered as nothing better than a partnership agreement in a trade of pepper and coffee, calico, or tobacco, or some other such low concern, to be taken up for a little temporary interest, and to be dissolved by the fancy of the parties. It is to be looked on with other reverence, because it is not a partnership in things subservient only to the gross animal existence of a temporary and perishable nature.

It is a partnership in all science; a partnership in all art; a partnership in every virtue and in all perfection. As the ends of such a partnership cannot be obtained in many generations, it becomes a partnership not only between those who are living, but between those who are living, those who are dead,  and those who are to be born. — Edmund Burke, Reflections on the Revolution in France: Part I

(社会とは確かに契約です。ただ偶(たま)さかの利益を目的とした副次的契約でしたら随意に取り消されるかもしれませんが、国家は、僅かな一時的利益のために同意され、当事者の気まぐれによって取り消される、胡椒とコーヒー、キャラコ、タバコなどそういった低次元の物の取引程度のものと見做されるべきではありません。他の敬意を持って見做されるべきものなのです。なぜなら国家は、一時的で滅びやすい性質の粗野な動物的存在にしか従属しないものの連携ではないからです。

それはすべての科学の連携、すべての芸術の連携、あらゆる美徳とすべての完成の連携なのです。このような連携の目的は何世代たっても達成され得ないので、単に生きている者の間だけでなく、生きている者と死んでしまった者と生まれてくる者との間の連携ともなるのです)

 大阪市を廃止すべきか否かといった大事を「生者」の住民投票で決めようとするなど有り得ない。「大阪市がなくなればどうなるのか」など誰にも分かるはずがない。こんな判断できないことを住民に問い、その責任を負わせようとするのは間違っている。

 これは間接民主制を理解しない者たちの横暴である。が、これはおそらく大阪維新の会だけの問題ではない。昨今の直接民主制への渇望は、例えば、

都道府県と政令市の関係はどうあるべきか。地方行政の課題を直接投票で住民自ら選ぶ機会が2度も設けられたことは評価できる》(11月3日付中國新聞社説)

などと、なべて左寄りの人たちにしばしば見受けられるものである。

 判断できないことを有権者に問えば、「いい加減な票」が積み重なるだけである。この「いい加減な票」によって政治を動かそうとするのは「衆愚政治」に他ならない。そしておそらくこれは「全体主義」への一歩となる。

 「全体主義」に陥らないためには、中間にある存在が重要となる。今回の住民投票で言えば、大阪府議会および市議会の「議員」である。「議員」が議論を尽くしているのであれば問題はない。が、議論が生煮えのまま、今回のように有権者に判断を仰ぐようなことになれば、社会を混乱させるだけである。元はと言えば、大阪の地盤沈下も偏(ひとえ)に大阪の「古株議員」に大きな責任がある。

 大阪市を廃止するなどという多くの人が尻込みしてしまう大改革を夢想するのではなく、誰もが受け入れられる日々の小さな改革を積み重ねることで大きな改革となす。それが現実的な改革なのではないのだろうか。【続】