保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「よい政治」とは何か(3) ~時処位~

「よい政治」であるかどうかは具体的状況次第である。

 江戸時代初期の陽明学者・熊沢蕃山(くまざわ・ばんざん)は、物事の善し悪しは「時処位(じしょい)」によって変わることを説く。

《法は、聖人が時・所・位に応じて、物事に適宜であるように作られたのである。だから、聖人の時代には道に配した。時が過ぎ人位が変われば、聖人の法でも用いにくいものがある。合わないものを行なう時はかえって道に害がある。

 現今の学者が道であると考えて行なうことは、多くは法である。時・所・位の至善に適宜でなければ道ではない。それだけでなく、今の法に馴れとらわれた学者は、仁義を知らず、争心利害の凡情が強く、ただ自分の気質が近いので、事を勧め法を用い、経学の文章の理を説明するのが道者だと考えている。

世の中の人々はこの徳があればこの病があり、寛仁(かんじん)な生まれつきの者は、実行に適さない。物事の大意を見る者はこまかな行ないを顧みない。篤実(とくじつ)な性質の者は才知が足りない。作法はよく勤めるが、争心で思い上がっている者がいる。人と異なることを悦んで学問を好む者がある。

初めの3つは、徳についた病である。後の2つは、凡心を根として外見をよくしようとするものである。そうだけれども、その生まれつき文章の理にすぐれているか、事を勤めるを得意とするかで、右のようになるのである》(熊沢蕃山「集義外書」巻三:『日本の名著11』(中央公論社)伊東多三郎訳、p. 363)

 「時処位」とは、差し詰め「TPO」ということである。蕃山を模して言えば、「日本国憲法は米人が敗戦後の時処位に応じて作られた。が、70年余りの時が過ぎ人も変われば日本が置かれた状況も変化している中で、時処位に合わないものを墨守し続けることはかえって有害である」と。

「時をもって山林に入る」(『孟子』梁恵王上篇、時節を計って山林に入る)という政治は、現代でも行なわなくてはいけないことである。山林が尽き川沢が浅くなっては、悪いことが多くなると思います。

と問われ、蕃山曰く。

その根本があり、その事の勢(いきおい)ができて後には行なわれるだろう。今の勢で、時をもって山林に入るの法が興(おこ)れば、天下はますます難儀するであろう。今日の食料さえようやくに稼ぎ出し、明日の貯えもない者が多い。食もなく暇もなければ、どうして秋冬のうちに明年の春夏の薪(まき)を伐(き)りおくことができようか。薪材木を伐って米に替え、その日その日に妻子を養う者ばかりである。

現今でも自然に立山(官有林)があって、草木を伐ることを禁止しても、売るための木は伐らないにしても、めいめい朝夕の薪を盗み伐らないということはない。今日、明日の食料さえ乏しい者たちが、どうして薪を買って焚くことができようか。明日首を切られようとも、今日は盗まなくてはならないのである。

このような時節に、山林の制禁が多ければ、罪人は限りなく出るだろう。また、武士・町人なども薪がいよいよ不自由になって、朝夕の煙をあげることもできまい。

どんなに善いことでも、聖人の法でも、時・所・位に合わないことは悪く、山川までもなく、人倫にたちまち迷惑を及ぼすであろう》(同、巻八、p. 403)

 抽象的「善」が具体的な場面においてもなお「善」であるとは限らない。「善」は具体的時処位に応じ融通無碍(ゆうずうむげ)でなければならない。【続】