関西弁における<アホ>という言葉は、やしきたかじんがテレビ番組で力説してもいたように、本来愛情のある言葉である。が、この言葉のニュアンスが理解できない関西人が増えてきたこともまた事実なのであろう。だから<アホ>と言う言葉を発せられただけで異常に拒否反応を示す人間が増えてきているのである。
<嫁>も然(しか)り。「家内」も駄目。「奥様」も駄目。あの言葉も駄目、この言葉も駄目では、気軽に会話することも出来なくなってしまうだろう。
「時・処・位」を考えない言葉狩りは「文化破壊」である。その言葉が、いつ、どこで、どういう立場で発せられたのかを考慮せず、ただその言葉が発せられたことだけでもって非難することが「正義」だと思っている人達は唯我独尊の「自己中」である。
《どんなに善いことでも、聖人の法でも、時・所・位に合わないことは悪く、山川までもなく、人倫にたちまち迷惑を及ぼすであろう》(熊沢蕃山「集義外書 巻八」:『日本の名著 11』(中央公論社)、p. 403)
<嫁>という言葉があるから嫁は虐(しいた)げられるのか。<嫁>という言葉がなくなれば嫁は虐げられなくなるのか。それは非科学的な「言霊(ことだま)信仰」ではないのか。
<嫁>という言葉が無くなれば<嫁と称する存在>は無くなる。が、これまで<嫁と称してきた存在>が無くなるわけではない。
松山氏の場合、<嫁>ではなく<妻>と言うことが出来たし、その方が適正だと思われるけれども、例えば、「嫁・姑(しゅうとめ)問題」といった場合、<嫁>という言葉を他の言葉に置き換えることは難しい。この場合の<嫁>は、<妻>ではないし<連れ合い>でもない。つまり、「嫁・姑問題」は<嫁>という言葉を使わなければ論じられないということだ。
が、「嫁・姑問題」を語らなくても済む方法が1つある。それは「家族」を解体することである。「家族」を解体してしまえば、<嫁>だの<姑>だのといった存在は消えてなくなってしまう。
つまり、<嫁>という言葉の排撃の延長線上には、「共産党宣言」に言われた「家族解体」があるということなのだと思われる。
だとすれば、東京近辺は、家族解体が進んでいるということなのであろう。
少し話を転じよう。<嫁>が駄目だとすれば、「花嫁」はどうか。私は「花嫁」という言葉には麗(うるわ)しい心象しか抱かないが、<嫁>という言葉を批判する人達は「花嫁」も受け入れないのであろうか。
だとすれば、かつて小柳ルミ子が歌った「瀬戸の花嫁」という歌も歌えなくなってしまう。
♪♪瀬戸は日暮れて 夕波小波/あなたの島へ お嫁にゆくの♪♪
おかしな「言葉狩り」で日本の情緒、文化が失われていくことだけは避けなければならない。【了】