保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「よい政治」とは何か(2) ~中庸の徳~

子曰く、中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民久しきこと鮮(すくな)し。【雍也第六】

《政治に於て、治者と被治者との関係ほどに至難のものは無い。この関係を円滑に運転してゆくのが是れ即ち政治で、之が又政治の頗(すこぶ)る至難の所以(ゆえん)である。

大体から謂へば、被治者は治者に其資金を給し、治者は被治者より支給を受くる報酬として被治者の利益幸福を増進する事に力を尽さねばならぬものだといふ順序になる。されば、韓信の如きは「人の食を食む者は人の事に死す」とさへ曰つてるほどだ。治者は被治者の食を食んでる者であるから、被治者の利益幸福の為には生命を棄てねばならぬやうな事にもなるのだ。

かく一朝事あれば生命を棄ててやるからとて、平生被治者に何の権力をも与えず、之を圧服してばかり置けるものでも無く、さうかというて被治者に平素余り権力を与へ過ぎれば頓と又治まりがつか無くなり、昨今の露国に於ける如き状態のものになつてしまふ。

家康が天下の平和幸福を維持せんが為に治者被治者の区別を明確にするに力(つと)めたのも、当時の事情よりすれば止むを得なかつた事だらうが、この両者の関係を円滑にし権力の過不及が両者に無くうまく調和されて居るのが善政といふものである》(渋沢栄一『デジタル版「実験論語処世談」31-6』

 「よい政治」を考えるにあたっては、「治者と被治者」、今風に言うなら「国と国民」がどのような関係であるべきかが大きな問題となる。国が国民を苦しめるでもなく、甘やかすのでもない、<権力の過不及が両者に無くうまく調和されて居るのが善政といふもの>だというのはその通りであろう。が、国と国民の程良い関係、すなわち、「中庸」(ちゅうよう)ほど<至難のものは無い>のである。

《千変万化、機に臨み変に応じ、如何やうにでも形の変つてゆくのが是れ即ち中庸の徳と申すもので…孔夫子が中庸の徳を称揚して完全無欠、其れ至れるかな、と仰せられたのは、何事によらず中庸を得て居りさへすれば決して物に過失の起る心配が無いからの事である。

然(しか)し、孔夫子も斯(か)の章句の末尾に於て曰はれて居る如く、民久しきこと鮮(すくな)しで、実際永く中庸を守つて之を実行し得る人は至つて世間に少いのである。無口で無いとすればシヤベリ過ぎ、シヤベらぬとなれば今度は無口過ぎるとか、其他他人を責め過ぎる癖の人、怒り易く激し易い人、その又反対で余り他人に寛なるが為却つてその悪を助長する傾きのある人、斯んな風に、一方にばかり偏する人が兎角世間には多いのである。これが又一般人間の通有性であると謂つても可い。

然し中庸の徳は臨機応変千変万化、到らざる無く、その時、その処、其の事情の如何なる時処位にも処し、その時、処、位に最も適した道を取つてゆけるのだ。それが中庸で、そこに中庸の徳があるのだ》(渋沢栄一『デジタル版「実験論語処世談」31-2」』)【続】