保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

後藤新平の「政治倫理化運動」について(4) ~「今人大眼目なし」~

《我輩が現代の國情、ことに政界の狀况を眺めまして、憂慮痛憤に堪へざることは、今日の日本に於いて、實に奇怪なる政治用語が流行し、これが爲めに國民精神の根本を茶毒(とどく)したと申すことであります。

それは、何であるかと申しますと、『政治は力なり』と申す言葉であります。延(ひい)ては我黨内閣などゝいふ非立憲の文字を臆面もなく放言するなど、國民に害毒を流すこと甚しといはねばならぬ(拍手)。すなはち、政治の根本はたヾ現實的の力であると申すのであります。

而(しこう)して、その力と申す言葉の解釋が、或は、權力、情實、或は、金力、或は、暴力であつて、これを獲得するのが政黨の究亟の目的であつて、それが爲めには、何等の手段も選まないと申すことが、今日通用いたして居る物貭主義の政治思想であります。

百弊の端は、實に茲(ここ)に發すると、我輩は考へるのである(拍手)》(後藤新平『政治の倫理化』(大日本雄弁会)、pp. 37-38

 明治維新以降、西洋に追い付け追い越せと我武者羅(がむしゃら)にやって来たことの弊害が今や顕著となってきたということなのであろう。焼け野原から復興した戦後日本と同じである。物質に偏重し精神がなおざりにされた歪んだ驕慢(きょうまん)がここにはある。

《力と申すことの意味が、高尚なる道德的の力と申すことでありますならば、我輩は、異論はないのでありますが(拍手)、上述のごとく、力とは物貭的、現實的の力と申す意味でありまする爲めに、この言葉の流行とするところ、國を擧げて、低級劣惡なる物貭力崇拜の風潮に走らしめたのであります。この大勢を轉囘いたさなくては到底今日の日本の惡風を一洗することは出來ないのであります。要するに、物貭主義に偏傾するも不可、又精神主義に偏重するも不可、靈肉一如物心一如でなければいけないと信じます。乃(すなは)ち政治鬪爭の倫理化が必要となるのであります》(同、p. 38

 ここまで後藤新平の言を引いてきて言うのも何なのであるが、私は政治に<倫理>を求めることは二の次だと思っている。勿論、政治では<倫理>は不問と言いたいのではない。政治に一番必要なのは「哲学」ではないか、「大局観なき政治」が国を過(あやま)つ、私はそう思うのである。

 吉田松陰は言った。

《今人大眼目なし、好んで瑣事末節を論ず。(中略)

其の自ら行ふ所を見れば、辺幅(へんぷく)を修飾し、言語を沈重し、小廉曲謹、郷里善人の名を貪(むさぼ)り、權勢の門に伺候(しこう)し、阿諛追従(あゆついしょう)至らざる所なし。行々(こうこう)の色著はれず、侃々(かんかん)の聲聞えず、忠ならず孝ならず、尤(もっと)も朋友に信ならず、而して自ら居りて愧(は)づることを知らず。是れを之れ務(つとめ)を知らずと謂(い)ふ。(『講孟餘話』:『吉田松陰全集 第3巻』(大和書房)、p. 367)

口語訳】今の人は大きな見方ができず、つまらない、枝葉のことばかり論じている。(中略)

そのような人の行動を見れば、上辺を飾り、言葉づかいを重々しくしている。また、さっぱりとして、欲がなく、細かいことも注意深く謹み、ふるさとで立派な人と呼ばれたいと望み、権力のある家にはおべっかをつかい、自分を曲げてでも追従している。剛健な態度、剛直な見識はなく、忠孝を実践する様子もない。友人に信義がなく、自分の行いを恥じることも知らない。このような人を、人としてのなすべきことを知らない人という》(川口雅昭編『吉田松陰一日一言』(致知出版社)、p. 127)【続】