《弾道ミサイルなどの脅威から国民を守ることは、政府に託された使命であることに異論はない。脅威に対処することは当然だ。
しかし、専守防衛は戦後日本の国家戦略でもある》(6月26日付東京新聞社説)
国家の自由な動きを封じ込める<専守防衛>が日本が採るべき<国家戦略>であろうはずがない。「方針」と言うのならまだしも、<専守防衛>という卑屈な態度は、<戦略>という言葉の重みと釣り合ってはいない。
東京社説子は、日本の動きを封じ込めるための「戦勝国側の戦略」をこのように翻訳しているのだろう。
《他国に脅威を与える軍事大国にはならないという平和国家の歩みこそが、国際社会で高い評価と尊敬を得てきたことは、安倍内閣が策定した「国家安全保障戦略」も認めている》(同)
<国際社会>とは言うけれども、それは戦勝国のことを指すのだろう。つまり、武断主義・米中露にとって、日本が大人しくしていてくれた方が都合がよいというだけの話である。第二次大戦後、米中露は世界に対しどれだけ横暴横柄、得手勝手な態度をとり続けてきたことか。
《確かに歴代内閣は、日本がミサイル攻撃を受けた場合、発射基地への攻撃は「座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とは考えられない」と、憲法9条が認める自衛の範囲内としてきた》(同)
情報を操作せず、もう少し正確に言って欲しい。昭和31年2月29日衆議院内閣委員会15号にはこうある。
鳩山一郎首相「わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、 誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とするところだというふうには、どうしても考えられないと思うのです。そういう場合には、そのような攻撃を防ぐのに万やむを得ない必要最小限度の措置をとること、たとえば誘導弾等による攻撃を防御するのに、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います」(船田中防衛庁長官代読)
残念ながら「敵基地攻撃」は、法理的には可能だというこの鳩山首相見解から一歩も踏み込めてはいない。
《敵の基地を攻撃できる防衛装備の保有を認めてきたわけではない。政府見解は「平生から他国を攻撃する、攻撃的な脅威を与えるような兵器を持つことは憲法の趣旨ではない」としてきた》(同、東京社説)
こんな「永田町文学」を鵜呑みに出来るわけがない。敵基地攻撃能力を持つことは憲法上問題ない。が、国際政治との力関係から保有は控えざるを得なかった。
保有まで踏み込めないか検討するとの表明は、周辺国の反応を見るための「観測気球」に他ならない。【続】