保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

敵基地攻撃能力について(1) ~「専守防衛」という自縄自縛~

《政府が安全保障戦略の見直しに向けた議論を始めた。敵のミサイル発射拠点を破壊する「敵基地攻撃能力」の保有を認めるか否かが焦点となる》(6月26日付東京新聞社説)

 「敵基地攻撃能力」などと仰々しい言葉を使うから、何かとんでもないことを言い出しているかのように聞こえるのだろうが、日本に向けられたミサイルおよびその基地を必要とあらば事前に叩くことが出来る力を備えておこうというだけの話である。

 たとえ某国が「日本を火の海にしてやる」と公言し、ミサイルが着々と準備されようとも、今はただそれを拱手(きょうしゅ)傍観しているだけしかない。言い換えれば、「座して死を待つ」しか術(すべ)がない。それを改めようと言うだけである。

 が、東京社説子は言う。

《戦後日本の専守防衛政策からの逸脱は許されない》(同)

 <許されない>のはなぜか。急迫不正の侵害に対しても座して死を待てばよいということなのか。

 おそらく背後には憲法は絶対的であるという考えがあるのだろう。元々憲法が制定された当初、第9条は「非武装」条項であった。

こんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、2つのことをきめました。その1つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。

「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。(文部省「あたらしい憲法のはなし」)

 が、朝鮮戦争が勃発したことにより、米国の要請によって、9条は「自衛」まで放棄したものではないという解釈改憲がなされ、自衛隊が組織され、歯止めとして攻撃はせずもっぱら守備に徹するという「専守防衛」なる変梃(へんてこ)な考え方が採用され現在に至っている。

 大東亜・太平洋戦争の反省を踏まえてこのような歯止めを設けているというのが一般的見解のようだが、実際は米国の「思惑三寸」でしかない。米国が非武装と言えば非武装こそが一番と言い、朝鮮戦争が起こり、米国の方針が変更されると、米国が戈で日本が盾となる日米安保の範囲内で自衛力強化を図るということになったのである。

 が、「専守防衛」などと言っているから周辺の「ならず者国家」になめられる。拉致問題が解決しない理由もそこにある。「専守防衛」という縛りのせいで、拉致された人達を実力を行使して奪還するという作戦がとれない。憲法守って日本人を守らないなどというのはまさに「本末転倒」ではないか。【続】