保守論客の独り言

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同性カップルの権利について(3) ~憲法学内での解釈改憲はやめるべきだ~

《婚姻は「両性の合意」のみに基づいて成立すると定めた憲法について判決は、制定当時は同性婚が想定されていなかったにすぎず、否定する趣旨ではないと指摘した》(3月29日付信濃毎日新聞社説)

 憲法解釈において、制定当時想定されていなかったことは、否定されたわけではない。だから肯定してもよいではないかというおかしな論理が持ち出されることがあることに注意が必要である。

憲法3章が国民を権利の主体とする表現をとっていることは,国民には当然主体性が認められることを意味するのみで,外国人に主体性を否定する趣旨まで含むものではない》(高橋和之立憲主義日本国憲法3版』(有斐閣)、p. 85

 <憲法3章が国民を権利の主体とする表現をとっていること>は、外国人は考慮の埒外にあるということで、外国人の権利を認めるのであれば、別途憲法にその旨の記述を行う必要がある。それを外国人の主体性が否定されていないからといって、憲法に書かれていない理屈を積み重ね、外国人の権利を認めるというのは「立憲主義」に反している。

《人権が人の生来の権利であり,その意味で前国家的な権利である以上,その主体性が後国家的な国籍の有無に依存すると考えることはできない。国籍は,人権をもつ者ともたない者を区別するためではなく,国家権力の及ぶ範囲を人的側面から捉えるために考案された制度である。つまり,国家は国民を統治する権利を有し,かつ,保護する義務を負うのである。

しかし,国家権力の及ぶ範囲は,他方で,領域的にも画定される。したがって,日本の領土上に存在する限り,外国人にも支配は及ぶのである。そして,人権が問題となるのは,権力との関係においてなのであるから,外国人も権力の支配下に置かれる以上,人権の主体となりうるはずである》(同)

 だったら、改憲を行ってそのことをしっかり記述すべきである。憲法に書かれていない解釈を学者が勝手に行い、これが支配的な学説であるなどと能書きを垂れるのは、憲法学者の風上にも置けないと言うべきではないか。

《外国人(日本国籍を有しない者。無国籍者を含む)が日本国憲法の保障する人権の享有主体たりうるかどうかについては、判例は早くから、「いやしくも人たることにより当然享有する人権は不法入国者といえどもこれを有する」という肯定説の立場を採り(最判昭和251228民集412683頁)、その後の判例も、理由づけにはやや混乱もみられたが、ほぼ一貫して、人権が「わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶ」という立場を維持している。学説も一部に消極説はあるものの、積極説が支配的である》(芦部信喜憲法学Ⅱ人権総論』(有斐閣)、p. 121

《東京高裁が今月出した控訴審判決は、婚姻に準じた保護の必要性をより明確に示し、同性同士というだけで法律上保護される利益を否定することはできないと述べている。同性婚を認める立法を促したとも読み取れる判決である》(同、信毎社説)

 <立法を促した>と言うのなら意義のあることであるが、憲法学方面で繰り返されるのと同様の恣意的解釈を行ったのであれば、これは改めるべき慣習ではないかと思われる次第である。【了】