保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「他人が握ったおにぎり」を食べられない問題について(3) ~お袋のおにぎりは旨かった~

《そもそも高校の行事において、食中毒や集団感染を予防する手立てを考えておくということは、管理者の責任だろう》(河合塾横浜市立大学(前期)小論文総括)

 最近の学校は衛生面での意識は高く、農家の方がおにぎりを出してくれることは想定外のことだったと考えるべきであろう。このような場合、学校としては、衛生面の問題で生徒におにぎりを食べさせることは出来ない、ということを農家の方にはっきり伝えるべきである。

《かといって農家の夫婦が感謝を表すためにしてくれた行為に対して、かような振る舞いで応えるのは、いかにも非人間的であり、心ない行動といえる。農業体験はかのような行動に陥りやすい現代人に対して、生産し消費する人間の原点を体感させるものであるべきで、その意味で農業体験は失敗していたのである。このように捉えて、それでは今後どのようにすれば、より意義のある農業体験とすることができるか、その手立てを考えていくことになる》

 講評子は、おにぎりを食べないのは<非人間的>であると言うがこれは言い過ぎではないか。生徒たちは、人間としての心を失ったからおにぎりが食べられないのではない。他人が握ったおにぎりが食べられない子供は非人間的などと言えば、日本中どれだけの子供達が非人間的ということになるか。他人のおにぎりが食べられないのは、現代社会に共通する「病理」である。

《他人によって握られたおにぎりは「汚い」感じがするというが、それでは「汚くない」おにぎりを握ることが自分たちにはできるのか。そのためには食器や手を注意深く消毒し、きれいな手で手早く握ることが大切であり、その一連の動作を自身でやってみることを通じて、誰かが丁寧に握ったおにぎりを食べることの意味を実感することになるだろう。また実際に自分でおにぎりを握ることによって、本当に「美味しい」とはどういうことなのか、それを理解することができるだろう。農業体験とはそのような体験まで含めたものであるべきだ》(同)

 汚い綺麗の問題ではない。衛生面において十分配慮された上で出されたものであるという保証がない以上、食べるのに躊躇(ちゅうちょ)するのは当たり前である。

 また、たとえ手洗い消毒した手であっても、素手でおにぎりを握るというのも疑問である。学校行事なら必ずビニールの手袋を着用させるだろう。

 講評子は<農業体験とはそのような体験まで含めたものであるべきだ>と言う。が、稲刈りに加え、おにぎりを自分で握ることまでを体験させるのは欲張りすぎだろう。教師の準備が追っつかない。

《どんなに高いワインより、喉が渇いたときの一杯の冷たい水の方が旨い。

お袋が握ってくれたオニギリより旨いものはない。

贅沢と幸福は別物だ。慎ましく生きても、人生の大切な喜びはすべて味わえる。人生はそういう風にできている》北野武『新しい道徳』(幻冬舎)、pp. 58-59)

と素直に言えた昔が懐かしい。【了】