保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「他人が握ったおにぎり」を食べられない問題について(2) ~問題とどう向き合うかが問題だ~

《私が本問に接しまず気付いたことは、医師という職業に従事した場合、将来遭遇するであろう3つの事項が、課題文の中にさりげなく盛り込まれているということである。それは、

(1)少数者の人権尊重・擁護に対する考え方、

(2)高齢者に対する意識の度合い、

(3)言いにくい事柄を他人に告白する際の話術

の3点である》(小林公夫:現代ビジネス11/24(日) 8:01配信)

 本問題においては、おにぎりを食べない生徒の「人権」にも配慮すべきだということらしいのであるが、どうしてこのようなことにまで<人権>などと言う言葉を持ち出さなければならないのか私には分からない。

《人が生まれながらにしてもつ権利、人ということだけを理由に認められる権利が「人権」である》(高橋和之立憲主義日本国憲法 第3版』(有斐閣)、p. 68)

 が、本来「権利」と「義務」は表裏一体のものである。にもかかわらず、<人権>には「義務」が伴わない。人は生まれながらにして「人権」があると言うのなら、同時に生まれながらにして「義務」もあるとしなければならない。そうでなければ帳尻が合わない。

 <人権>についてはまだまだ言い足りないが、話を先に進めよう。

 農家のおばあさんは、国家権力を用いて生徒たちにおにぎりを食べることを強要したわけでもなんでもない。にもかかわらず、おにぎりを食べない根拠として<人権>を用いるのは位相が違いすぎやしないか。

 食べるのを遠慮するのに、おばあちゃんの心を傷付けずどのように言うのかが問われているだけであって<人権>を持ち出すような話ではない。

 次に、この問題を<高齢者>の問題とするのもずれているように思う。握ってくれたのがたとえもっと若い人であったとしても他人であることに変わりはなく、食べられない生徒は食べられないに違いない。

 最後の<言いにくい事柄を他人に告白する際の話術>はおにぎりに限った話ではなく日常茶飯の問題である。言い難いが、小林氏が指摘する3点は論点がずれている。

 この問題に対する河合塾の講評を見てみよう。<答案作成上のポイント>として次のように書かれている。

《一見するといかにも間の悪い状況で、「知らない人の握ったおにぎりは食べられない」という生徒たちが恩も礼儀も知らない現代っ子だと、憤りすら感じるかもしれない。だが農業体験がこのような残念な結果に終わったのは指導者の責任だとして、問題にきちんと向き合い、どこが問題なのかを明確にしていくことが重要である》

 これは<現代っ子>の問題ではない。一端(いっぱし)の大人であっても、誰がどのように握ったのか分からないおにぎりを食べることには少なからずためらいもあるに違いない。

 引率教師が責任者として事後、問題に向き合うことは必要であり、同じ失敗を繰り返さぬためにもしっかり総括しておくことが必要であることは論を俟たない。

 問題はその向き合い方である。【続】