桐生悠々は、<昭和>に語り掛けるという手法で、時代状況を批判する。
《「昭和」! お前は今日の時局に何というふさわしからぬ名であるか。尤もお前も最初は明朗であり、その名通りに「昭」であり、「和」であったが、年を重ぬるに従って、次第にその名に背き五・一五事件以前において、早くも「暗」となり、「闘」となった。そして昨年の二・二六事件以来は、「暗」は益々「暗」となり、「闘」は益々「闘」となった。(中略)
「昭和」よ、お前は今日から、その名を「暗闘」と改めよ。これが、お前に最ふさわしい名である。
だが、「昭和」よ、これは決してお前の罪ではない。お前は世界を、少くとも東亜をして、「昭和的」ならしめんが為に生れ来たのであるが、これをして、しかく「暗闘的」ならしめているのは実はこういう私たちなのだ。私たちの一部のもの〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、本来は「昭和的」なるお前を駆って、しかく「暗闘的」ならしめているのだ。そうだ。たとい私たち一部のものに過ぎないにしても、それが私たちの同胞である限り、これを黙視し座視している私たちは、彼等と同罪なのである。だから、私たちはたとい間接であっても、この黄を免れることはできない》(昭和12年1月5日):『桐生悠々反軍論集』(新泉社)、pp. 129-130)
当時、軍部を批判するような表現は検閲に引っ掛かり「伏字」とせざるを得なかった。桐生悠々は、このような弾圧の中にあっても<言うべきこと>を言い続けた。
が、桐生悠々が戦後平和主義者と異なるのは、自分を含めた<私たち>の問題としていることである。自分を「空想の高み」に置いて相手を見下したり、自分に災厄が降りかからぬよう「安全地帯」からお気楽に相手を難癖を付けるような不道徳なことはしない。「自分たち」が創り出している「時の流れ」を「あるべきもの」に戻そうとしているのである。
《悠々にとって一連の言論は、犠牲も覚悟の上で、言うべきことを言う義務の履行だったのです。
正宗(白鳥)が言う「いかに生くべきか、いかに死すべきかを、身を以つて考慮した」悠々の命懸けの言論は戦争への流れの中では顧みられることはありませんでしたが、戦後再評価され、今では私たち言論、報道活動に携わる者にとって進むべき方向を指し示す、極北に輝く星のような存在です》(2019年9月8日付東京新聞社説)
桐生悠々を「北極星」と仰ぎ見るのなら、問題を<私たち>のものと捉えるべきであろう。権力を批判することで自らの「正義」を確認するようなやり方は間違ってやいやしないか。
《<蟋蟀(こおろぎ)は鳴き続けたり嵐の夜>
悠々のこの句作が世に出た35(昭和10)年は、昭和六年の満州事変、7年の五・一五事件、8年の国際連盟脱退と続く、きなくさい時代の真っただ中です。翌11年には二・二六事件が起き、破滅的な戦争への道を突き進みます。
もし今が再び<嵐の夜>であるならば、私たちの新聞は<蟋蟀>のように鳴き続けなければなりません。それは新聞にとって権利の行使ではなく、義務の履行です》(同)
違うのだ。<蟋蟀>は唯我独尊よろしく他者を否定するようなことはしない。平穏な世の中であろうと喧噪(けんそう)な世の中であろうと<蟋蟀>は太古の昔から変わることなく鳴き続けてきた。そこにはただ言うべきことを言う「自然体」があるだけである。【了】