保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

桐生悠々について(3) ~パペット・ショー批判~

《将来若(も)し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心阻喪(そそう)の結果、我は或は、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。何ぜなら、是の時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだろうからである。

如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、又平生如何に訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすること能わず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く、投下された爆弾が火災を起す以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである。しかも、こうした空撃は幾たびも繰り返えされる可能性がある》(桐生悠々「関東防空大演習を嗤う」(昭和8年8月11日):『桐生悠々反軍論集』(新泉社)、pp. 36-37)

 ごく常識的な指摘であり、実際東京大空襲では指摘の通りになった。当然、

《敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである》(同、p. 37)

 そして

《帝都の上空において、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖(いえど)も、要するにそれは一つのパペット・ショーに過ぎない》(同)

<パペット・ショー>(人形劇)とはかなり挑発的な物言いではあるが、<関東防空大演習>など<滑稽>以外の何物でもない。自分たちの幼稚さを指摘され逆切れする軍部では戦争に勝てるはずもない。

《無論私たちは安価なる平和論者ではない。時によっては、大に戦わねばならない。

だがその戦は今日の如き「暗闘的」であってはならない。公々然として戦い、互に言うべきことを言わしめ、行なうべきことを行わしめなければならない。言いかえれば、その争や、君子の争でなければならない。

更に言いかえれば、明治天皇五ヵ条の御誓文にいうところ「万機公論」的の争、上下心を一にして盛に、これを行なう「経綸」的の争、「官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦(う)まざらしめんが為の」戦であらねばならない。

だが今お前が私たちに強いている戦は全然これに反している。具体的なる実例は枚挙(まいきょ)に遑(いとま)もない。

だが私たちは、この実例をここに掲(あ)ぐることを許されない。掲ぐれば、本誌は直に頒布(はんぷ)を禁止されるだろう。何という陰惨な、何という不愉快な時代であるか》(桐生悠々「不安なる昭和十二年」(昭和12年1月5日):『桐生悠々反軍論集』(新泉社)、p. 129)【続】