保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

桐生悠々について(1) ~言いたい事と言わねばならない事~

《人動(やや)もすれば、私を以て、言いたいことを言うから、結局、幸福だとする。だが、私は、この場合、言いたい事と、言わねばならない事とを区別しなければならないと思う。

 私は言いたいことを言っているのではない。徒(いたずら)に言いたいことを言って、快を貪(むさぼ)っているのではない。言わねばならないことを、国民として、特に、この非常時に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ。

 言いたいことを、出放題に言っていれば、愉快に相違ない。だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて、苦痛である。何故なら、言いたいことを言うのは、権利の行使であるに反して、言わねばならないことを言うのは、義務の履行だからである。尤も義務を履行したという自意識は愉快であるに相違ないが、この愉快は消極的の愉快であって、普通の愉快さではない。

 しかも、この義務の履行は、多くの場合、犧牲を伴う。少なくとも、損害を招く。現に私は防空演習について言わねばならないことを言って、軍部のために、私の生活権を奪われた。私は又、往年新愛知新聞に拠って、いうところの檜山事件に関して、言わねばならないことを言ったために、司法当局から幾度となく起訴されて、体刑をまで論告された。これは決して愉快ではなくて、苦痛だ。少なくとも不快だった》(桐生悠々「言いたい事と言わねばならない事と」(昭和11年6月5日):『桐生悠々反軍論集』(新泉社)、pp. 105-106

 <言いたいことを言うのは、権利の行使であるに反して、言わねばならないことを言うのは、義務の履行だ>というのはその通りである。

 翻(ひるがえ)って、私はまだまだ権利を行使して言いたいことを言っているに過ぎない段階にあり、一層精進せねばならないと思う。

《彼(=桐生悠々)はいかに生くべきか、いかに死すべきかを、身を以って考慮した世に稀れな人のやうに、私には感銘された。これに比べると、今日のさまぐな知識人の賢明なる所論も、たゞの遊戯文字のやうに思はれないでもない。

 内村鑑三先生は、軍備全廢を強調し、西洋諸国が武力を以って攻撃して來たら聖書を以つて答へよ。「聖書にかうあるではないか」と語間せよ。それでも彼等が反省せず暴虐を敢てするなら、それを忍べ。究極は神彼等を罰し玉はんと云つた。

 悲観的桐生と云ひ欒観的内村と云ひ、どちらも事理に疎い空論家であるにはちがひない。しかし、さまざまの賢明な智識人の所論に比べて、痴人の面白さがそこにほのめいてゐるではないか。「人生如何に生くべきか」或は死ぬべきかを、かの二人はその好みによって示してゐるではないか》(『正宗白鳥全集 第9巻 評論4』(新潮社版)、pp. 343-344【続】