保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「日本人」という括(くく)りについて

元TBSのアナウンサーの小島慶子女史は言う。

《20代の頃、大人が何かというと「日本人は」という言い方をするのが引っかかっていました。日本人って1億人以上いるよね? 私もその一人だけど、この人の勝手な「日本人は〇〇」っていう定義に入れないで欲しいなあ、と思っていたのです。

今でも「日本人は〇〇だから」はよく聞きますよね。20代も60代も、世代を問わずよく使っています。では、「日本人」って、あなたは何だと思いますか? 私は相変わらず「括りが大きすぎる!」と思ってしまいます。だって、同じ日本人でもバラバラじゃないですか、好みも価値観も》(2021.8.26 mi-mollet

 同じ日本人でも好みも価値観もバラバラである。それはその通りだ。が、一方で、好みや価値観において一定の傾向が日本人にあるのもまた「事実」と言うべきであろう。つまり、個人として見ればバラバラでも集団として見れば一定の傾向を有しているということである。

 こんな当たり前のことを否定したくなるのは、自分が「標準的日本人」としての傾向を有していないのではないかという不安やそういう傾向を有したくないという反発が故であろう。が、「人は人、自分は自分」でいいではないか。

 自分を押し殺して日本人然として振る舞わなければ「日本人の輪」に入れないなどという強迫観念を持つ必要はない。一方、たとえ自分らしく振る舞っても、そこには日本人然としたところが見え隠れするのもまた仕方のないことである。

《「〇〇人は〇〇」というやってしまいがちな決めつけは、悪気がなくても、特定の国や人種に対する差別や偏見、外国人嫌悪(ゼノフォビア)にもつながりかねません》(同)

 「違い」を認め尊重することは重要である。「違い」を否定的に捉え、これをなくそうとするのは自然の摂理に反する。「違い」を認めることが「偏見」を生むとして「違い」を認めないというのは、ただ目の前の現実を見ないようにしている「欺瞞」に過ぎない。

《「私=日本」という認識は他のところでも見られます。「反日」という言葉は、他国の人が日本に対して敵対的な態度を示すことを意味しますが、近年では日本人同士で、政権を支持する人が政権批判をする人に用いたり、単に自分と意見の違う人を攻撃する際などに用いたりするようになりました。つまり「反日」とは「反俺・反私」なのですね。なぜ、意見の違う人に対して「自分はそうは思わない」ではなく「お前は反日だ」と言うのでしょうか。なぜ、括りを大きくするの?》(同)

 小島女史がこのように言うのは、自分が<反日>だとの非難に晒されているからであろう。が、それは日本を否定するから<反日>だと言われるのであって、ただ「私」と違うから<反日>なのではない。

 敢えて日本の歴史や文化に背くようなことを言えば、<反日>と呼ばれるのも致し方ない。<反日>と呼ばれても構わない。それでも言うべきは言う。その覚悟がないのであれば、日本の歴史や文化に楯突かぬのが賢明であろう。