《首相主催の「桜を見る会」について、政府が来年度の開催中止を決めた》(11月15日付朝日新聞社説)
が、一端噛み付いたら離さないスッポンのような人たちは赦(ゆる)さない。
《安倍首相は数々の疑問に、いまだ何ひとつ、まともに答えていない。このまま幕引きとするわけにはいかない》(同)
《桜を見る会の中止で幕引きは許されない。疑惑解明の始まりにすぎない》(11月15日付東京新聞社説)
《税金を使った国の行事が「私物化」されたのではないかとの疑惑が首相自身に向けられている。中止によって問題に幕は引けない》(11月15日付北海道新聞社説)
《政府は急きょ、来年の開催中止を決めた。だが、それで幕引きとはいかない。誰をどんな理由で招いたのか、首相は丁寧に説明すべきだ》(11月15日付徳島新聞社説)
<幕引き>という言葉が流行り言葉のように使われていることからも、批判が一面的であることが窺(うかが)われる。
《第2次安倍政権発足以降、招待者が膨れあがり、特に首相の後援会関係者が大勢招かれていることに公私混同との批判が強まっていた。急な中止決定に、追及の矛先を鈍らせる狙いがあるのは明らかだ》(同、朝日社説)
招待者が膨れ上がったことが問題なのか、公私混同が問題なのか。
《公私の区別が曖昧になっていたとすれば問題だ。節度を欠いていたとの批判は免れまい。長期政権ゆえの緩みが背景にあるのではないか。首相は自らを律し、政権運営にあたるべきだ》(11月14日付読売新聞社説)
これまで安倍政権を支えてきた、否、指南役であった読売新聞までがこのように書くのは注目に値する。少なからず方針転換があったのだろう。
《政府はあいまいな招待基準や、不透明な招待プロセスなどを見直したうえで、再来年度の復活をめざす。1952年から続く行事であるが、各界で「功績・功労」があった人が対象という会の趣旨に立ち返り、この際、長年の慣行を見直し、今の時代にふさわしいものにしてもらいたい》(同、朝日社説)
「やめろ!」と言うのならいざ知らず、<今の時代にふさわしいものにしてもらいたい>などと言うから分からなくなる。長年続けられてきたことであっても、これからの時代に合わないのならやめればいい。<今の時代にふさわしいもの>などと言えば、結局折り合いがつかず伸び伸びになるだけである。
《今国会でも繰り返されているのは、政権への打撃が大きいとみると批判の矢面から「火元」を覆い隠す安倍官邸の手法である。
菅義偉官房長官が来春の開催中止を発表した桜を見る会も同様にしたいのだろうが、今回の問題には首相が直接関わる。国民の目は一層厳しく、沈静化や幕引きなどできるはずもない》(同、東京社説)
反安倍政権の人たちだけが<国民>なのではない。親安倍政権の人たちやごく中立的な人たちも「国民」である。「国民」は反安倍の野党やマスコミの「為にする批判」、そしてばればれの偽情報に飽き飽きしてしまっているのではないか。