萩生田光一文科相の「身の丈」発言によって動き出した大学入試改革への批判。英語の民間試験導入は一旦見送られたが、もう一つの目玉である「記述式」にも批判が高まっている。
《中途半端な手当てですませようとせず、いったん白紙に戻して検討し直すべきではないか》(11月15日付朝日新聞社説)
《このまま見切り発車するのは無謀だ。
受験生が「実験台」にされかねない以上、現状では延期するしかなかろう》(11月13日付毎日新聞社説)
《文科省は一度立ち止まり、何のための記述式導入なのか、根本から問い直すべきだろう。生煮えの仕組みのまま、見切り発車することは許されない》(11月13日付西日本新聞社説)
<生煮え>なのは記述式試験の導入だけではない。これを批判する側も<生煮え>の感が強い。
《一番の心配は、受験生の自己採点と実際の採点とが大きくずれることだ。昨年の2度目の試行調査でも「不一致率」が3割に達した。自己採点が甘いと2次試験の出願先に門前払いされかねず、逆に厳しすぎると、自分の力を誤解したまま志望先を断念することも想定される》(同、朝日社説)
一番の問題は、そもそも主観的採点を免れない、つまり、採点がぶれることが避けされない記述式試験を全国一律に課すということである。二次試験は記述式である。にもかかわらずどうして一次試験に記述式を導入しなければならないのか。
《思考力や表現力を測ることが導入の目的だ。知識偏重を見直そうとする理念自体は間違っていない》(同、毎日社説)
などというのは大学入試の仕組みが分かっていない素人考えに過ぎない。
《暗記型の知識ではなく、思考力や判断力、表現力を育てる入試改革の理念は否定しない。だが信頼を得られないままの見切り発車は乱暴だ。翻弄(ほんろう)されるのは受験生であることを忘れてはならない》(11月14日付京都新聞社説)
などと訳知り顔で的外れなことを言われては迷惑である。問題は<信頼>云々ではない。大学個別二次試験が記述式であるにもかかわらず、屋上屋を架すように全国一律に記述問題を課すことがそもそも間違っているのである。
《ここにきて文部科学省も事態の深刻さを認識したのか、2次試験に進む受験生を絞り込む「2段階選抜」の判定材料に国語の記述式の成績を使わないよう、国公立大学に求めることを検討しているという》(同、朝日社説)
ここまでくると何のために記述問題を課すのか意味不明である。分を弁えず安易に制度改革を行おうとするからこういうことになるのである。そして間違いに気付いても変なプライドがこれを許さない。【続】