保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

選択的夫婦別姓制度への野次について

衆院の代表質問で、国民民主党玉木雄一郎代表が選択的夫婦別姓制度の導入を訴えた際に、自民党席の女性議員から「だったら結婚しなくていい」とやじが飛んだとして、野党が反発している。

 野党側は発言者は杉田水脈(みお)氏だったと名前を挙げ、自民党に事実関係と、撤回・謝罪の意思の有無を確認するよう求めた。

 自民党はうやむやにしたいようだが、言論の府にあるまじき低劣なやじを見過ごしてはならない》(125日付北海道新聞社説)

 私はそもそも「野次」自体に反対の立場である。野次で議会を活性化しようなどという馬鹿げた考え方は改めるべきである。が、逆説的になるが、「野次」が基本的に認められないとなれば、時として「野次」が効果的となることも有り得るということは付け加えておきたいと思う。

 さて、次なる問題は、選択的夫婦別姓制度導入を訴えている玉木氏に「だったら結婚しなくていい」と野次るのは暴言なのかということである。価値観の多様化が進み、婚姻制度も例に漏れず、別姓夫婦などというある意味「矛盾」した家庭を作ろうという話も時代の流れを考えれば押し戻すことが難しくなってきているのであろうと思われる。だからこそ、このような野次が飛び出したともいえるだろう。

 「夫婦」が力を合わせて1つの「家庭」を作ることが「結婚」というものなのであれば、「同姓」であることも重要な要素であろうと思われる。だから、「別姓」を希望するのであれば、「結婚」しなければよいと言うのにも一理あるだろう。にもかかわらず、絶対悪であるかのように袋叩きにしようとするのはあまりにも感情的に過ぎるだろう。否、むしろ「理性」以外のすべてを失ってしまったと言うべきか。

《狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるのである。実際、この意味では、狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である》(『GKチェスタトン著作集1 正統とは何か』(春秋社)、p. 23

《選択的夫婦別姓の導入は、多様な価値観を尊重する時代の要請である。だが代表質問で首相は「わが国の家族の在り方に深く関わることだ」などと述べ、慎重姿勢を繰り返し示した》(同、北海道社説)

 <多様な価値観を尊重する>からこそ<結婚>などという古臭い制度に固執しなくてもよいのではないか、とも言える。社説子は、選択的夫婦別姓の導入を<時代の要請>というが、果たしてそうか。結婚制度のおこぼれに与ろうとするのが<多様な価値観を尊重する>ことなのだろうか。