保守論客の独り言

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裁判員制度10年(1) ~人の生き死にを素人に判断させるおかしな制度~

《国民が刑事裁判の審理に加わる裁判員制度が、施行から10年を迎える。制度への理解を深め、参加する意義を訴えていくことが欠かせない》(519日付読売新聞社説)

 いつまで国民を欺(あざむ)き続けるのか。裁判員制度が導入されるにあたって、この制度の導入主体が誰で、どこに責任があるのかすら判然としなかった。今でもこのおかしな制度の責任の所在は不明である。

 少なくとも本来責任主体と考えられる司法はこの制度を良き制度だと思っておらず、この制度を育てようという意思が感じられない。それは裁判員裁判の軽視どころか軽蔑とも言える態度に表れている。

《導入から21日で10年を迎える裁判員裁判で、これまでに37件の死刑判決が言い渡された。命をもって罪を償わせる重い判断だが、うち5件を職業裁判官だけで審理する二審が破棄し、無期懲役に。過去の判例との「公平性」を重視するなどした結果とはいえ、関わった元裁判員からは「民意なんか要らないということか」との声も漏れる》(時事ドットコムニュース01905130645分)

 日本国憲法嫌いの私が言うのも何だが、裁判員制度憲法違反の疑いが濃厚である。

憲法37条1項 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。

 素人が集まって過去の判例基準を変更し死刑判決を出すことが「公平」とはとても思われない。だからこそ、職業裁判官が2審で1審の死刑判決を覆(くつがえ)しているのであろう。

 裁判員制度導入前によく言われたのは、職業裁判官の感覚が一般社会とずれているのを裁判員制度で庶民の感覚を取り入れ是正するというものであった。が、このようなことは死刑判決が出るような案件でなされるべきものでないことは言うまでもない。もし、庶民感覚を反映させたいのであれば、人の生き死にに関わらぬもっと軽度な案件を扱うべきである。

 専門知識も経験蓄積もない、したがって責任の取りようもないずぶの素人が集まって死刑が宣告され、刑が執行後、冤罪(えんざい)であったなどということになればどういうことになるのか。これは明らかに社会による「殺人」ではないか。このような危険を国民に押し付ける、それが裁判員制度である。

《裁判への参加を通じ、司法に対する国民の信頼を高める目的で導入された制度だ》(同、読売新聞社説)

 <司法に対する国民の信頼を高める>ために人の生き死にを素人に扱わせるなどというのがどれほど非道徳的なことか。【続】