保守論客の独り言

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裁判員制度10年(2) ~市民感覚で人を裁く恐ろしさ~

《判断に市民感覚が生かされている事例が多く見られる。

 裁判官裁判の時代に比べ、性犯罪事件で重い刑を選択する傾向が目立つ。卑劣な犯罪に対する厳しい姿勢が反映された結果だ。執行猶予の半数以上に保護観察が付いているのは、被告の更生を裁判員が重視した表れだろう。

 法廷の光景は変わった。捜査段階で作成された供述調書を調べることよりも、証人を法廷に呼び、直接証言してもらうスタイルが定着した。わかりやすい裁判が実現しつつあるのは間違いない》(5月19日付読売新聞社説)

 具体性に欠け、印象操作の域を出ない文章である。

《大阪・ミナミの路上で12年6月、男女2人が刺殺された通り魔事件…一審は求刑通りの死刑判決。「2人の命を奪ったのだから、死をもって償うのが当然。本当にうれしかった」と(事件で殺害された男性の妻)有希さん。だが、1年8カ月後の控訴審判決は裁判員の判断を覆した。「計画性のない通り魔なら、2人まで殺してもいいのか。もう1人被害者がいればよかったのか」。朗読される理由に体が震えた。

 「裁判員の方は、見たくないものを見て、聞きたくないものを聞き、悩んで悩んで、結論を出してくれたのに」。有希さんは、過去の判例を言い募るのなら、裁判員制度なんてやめればいいとさえ思っている》(時事ドットコムニュース019年05月13日06時47分)

 つまり、重大事件だけは譲れず、過去の判例を重視し裁判員裁判は軽視され、重大でないと見做される事件は裁判員の判断を尊重し裁判員裁判の成果であるとしているのであろう。

《スタート前年の2008年の世論調査では、全体の7割が「参加したくない」としていた。17年の最高裁アンケートでは、選ばれる前は47%が消極的だったが、参加後は96%が「良い経験と感じた」と答えている。

 自らの経験や感覚を実際の裁判に反映させる裁判員の役割について、経験者はおおむね肯定的にとらえているようだ》(5月19日付京都新聞社説)

 <自らの経験や感覚を実際の裁判に反映させる>、そんなおそろしいことがどうして<肯定>されるのか私には分からない。場合によっては人の生き死にが掛かるのである。

 よほど多くの国民は経験や感覚が優れているのであろう。法律の専門知識もなく、裁判の経験もない人たちが、市民感覚だけで人を裁けるなどということがどれほど恐ろしいことか。

 場合によっては、死刑判決を下さねばならないこともあるのである。たとえ判決にまったく瑕疵(かし)がなかったとしても、社会制度的「殺人」に主体的に加わるのである。まして、微妙な判断や責任を一手に引き受けた決断などというものが素人に出来るはずがない。【続】