保守論客の独り言

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2審であっさり覆される裁判員裁判について(2) ~「裁判員裁判の意味をもう一度考えてほしい」~

《大阪・心斎橋の通り魔事件で父親を亡くした中学2年の長女は最高裁の判決を受けて「頑張って決めてくれた裁判員の人たちの気持ちが無駄になってしまった」「裁判員裁判の意味をもう一度考えてほしい」と話した》(124日付産經新聞主張)

 この少女の思いこそ裁判員裁判で汲み取るべき「国民の声」ではないのか。死刑判決が覆されたことへの無念の中、素人裁判員のやり切れない思いを慮(おもんぱか)る少女の「裁判員裁判の意味をもう一度考えてほしい」という訴えを決して無碍(むげ)には出来まい。

最高裁は「死刑適用の慎重性、公平性確保の観点を踏まえると、2審判決の量刑が甚だしく不当とはいえない」と判断した。

 「公平性」とは過去の判例とのバランスを指し、その基となっているのは昭和58年に最高裁が示した「永山基準」である。連続4人射殺事件の永山則夫元死刑囚に対する最高裁判決は死刑選択が許されるとする9項目を示した》(同)

《死刑の選択は、①罪質(事件の全体像・特徴)②動機③態様、特に殺害の手段方法の執よう性・残虐性④結果の重大性、特に殺害された被害者の数⑤遺族の被害感情⑥社会的影響⑦犯人の年齢⑧前科⑨犯行後の情状―などを併せて考察したとき、その罪責(犯罪の責任)が誠に重大で、罪刑の均衡(犯罪と刑罰がつり合っている)の見地からも一般予防(犯罪者を処罰することで、一般人が犯罪を行うのを予防しようという考え方)の見地からも、極刑がやむを得ないと認められる場合に許されるとされている》(47NEWS 12/7() 10:42配信)

裁判員制度は国民の常識を刑事裁判に反映させることを目的に導入された。そこには従来の量刑傾向と国民の常識との間に乖離(かいり)があるとの反省があったはずだ》(同、産經主張)

 であるなら、「永山基準」を公平性の基準とするのはやめるべきだ。「永山基準」が国民の常識と乖離しているのであれば、それを裁判員裁判を通して修正していくことこそが求められているのではないか。

《制度導入以前の判例との公平性を重視すれば、これが埋まることはない。36年前の「永山基準」がものさしであり続けている現状こそがおかしい。最高裁は、裁判員制度の意義を踏まえた新たな判断基準を明示すべきである》(同)

《この10年の裁判員裁判では、市民が参加することによって検察側、弁護側双方が法廷で図解や画像、映像を使ってより分かりやすく裁判員に伝えようとし、これまでの供述調書にたよった書面中心から公開の法廷でのやりとりを重視するなど、「裁判がわかりやすくなったこと」には大きな意味があります。

 裁判員制度が導入される前はプロ同士のやり取りの中で、担当する司法記者ですら理解しにくいような場面があったことも事実で、量刑面でも市民感覚が反映された判決も数多くあります。

 しかし、死刑か否かを問う控訴審、上告審だけは別の判断基準があるという現実》(8カンテレ12/5() 20:22配信 )

 誰が何のために導入を言い出したのか分からない裁判員裁判制度であるから仕方がないことなのであろうが、本当にこの制度が必要なのかも含めてしっかり検証する必要がある。【了】