保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

自民党総裁選(2/2)宰相の条件

自民党の総裁になるということは、日本の宰相となることである。ここで私の考える宰相の条件を3つ挙げておきたい。

 まず、宰相は、独裁者として政治を行うのでなければ、共に政権を支えてくれる取り巻きが必要だ。自分と思いを同じくする人達が周りを固めてくれなければ、十全たる政権運営は成り立たない。詰まり、宰相選びは、その人物とその人物を支えてくれるであろう仲間と込みで考える必要があるということだ。例えば、外交問題財政問題、防衛問題に長(た)けた人物がそれぞれ周りにいれば心強い。派閥あればこそ、同じ志を有(も)った専門家たちとの関係も築けるのだが…

 次に、宰相には、適切なる「ブレーン」(brain trust)が必要だ。例えば、中曽根康弘総理における西部邁氏、安倍晋三総理における岡崎久彦氏といった人達がそれに当たる。この政治家なら力を貸してもよいという大学教授や知識人がどれだけいるのかが問われるということだ。

 3つ目に、宰相となるべき人物は、外国要人との繋がりが必要である。異国において、自分の考えを自分になり代わって説き、広めてくれる人物がいるに越したことはない。見方を変えれば、日本の政治家を通じて、「親日家」を増やすということである。マレーシア元首相のマハティール氏と石原慎太郎氏の関係はまさにそれに当たるであろう。

 少し抽象的に言えば、「治者」としての覚悟が必要とも言える。

《ここで思い出されるのは、文芸評論家の故・江藤淳氏が、かつて戦後社会に対するアンチテーゼとして提示した「治者の論理」という言葉である。いわゆる「第三の新人」の小説を読み進む過程で、江藤氏は、戦後の日本社会が「被治者の論理」で動いていることを看破した。

 被治者の論理とは、換言すれば、親の保護下にある「子供の論理」のことである。子供というのは、まだ自分の行動に責任を負えるほど成熟していないからこそ子供なのであるが、そのくせ親に対して権利だけは主張して、やたらと不平不満をロにする。それと同じように、戦後の日本人は社会を作る当事者としての責任を忘れたまま、「こんなはずではなかった」と戦前の日本人を糾弾してきた。

 また、子供は社会の現実を知らないので、何をするにも理想論に走りがちである。「みんなが武器を捨てれば世界は今日から平和になる」「人間はみんな生まれたときから平等だ」というようなイノセントな正義を振り回すばかりで、何の実効性も示すことができない。これも、要は責任感がないがゆえの態度である。

 そういった「子供の論理」に対して、「父の論理」はもっと現実的にならざるを得ない。父にも子供と同じように世の中に対する不平不満はあるが、それをロにしているだけではどうにもならないのもまた、この世の中というものだ。理不尽なことも引っくるめた上で現実を引き受け、少しでも良いものにしなければいけない。

 とはいえ、自分にはそれほどの能力もなく、威張れるようなことは何もしていないし、糾弾されれば云い逃れできないような汚点もある。しかし、多少は薄汚いところがあっても自分はこの生活を守らなければいけない。現在の幸福を追い求めるだけではなく、子の世代が将来も安全に暮らせるような環境を整えることも必要だろう。――これが父の論理であり、つまりは責任を負う側の論理である》(福田和也『宰相の条件』(祥伝社黄金文庫)、pp. 142f)

 「子供の論理」が飛び交っているのが戦後日本というものだが、これを断ち切るのは誰か、それが問われているのではなかろうか。【了】