<完璧な憲法改正>と言うのであれば、憲法改正と言わず「自主憲法制定」と言うべきである。マッカーサーに押し付けられた憲法を土台として幾ら部分的改正を行っても、「マッカーサー憲法」の基本精神、すなわち、「日本弱体化」は変わらない。
日本国憲法は、日本が主権を剥奪された占領期寒中に無理矢理押し付けられたままで、1952年の「サンフランシスコ講和条約」によって日本が主権を回復した後、未だ日本が自主的にこれを承認してはいない。だから事ある毎に「日本国憲法無効論」が鎌首を擡(もた)げることになるのだ。
部分的に憲法を改正すれば、改正されない部分も初めて日本人が事実上承認することになる。だから、憲法改正は慎重に慎重を重ねて事を運ぶ必要があるのだ。「少しずつ変えていけばよい」という話は、いかにも現実的に聞こえるが、実際は非常に危うい話なのである。
例えば、しばしば問題とされる前文の
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した
の部分は、今言われている憲法改正事項には恐らく入ってこないだろう。これまでは、GHQに押し付けられた憲法ということで議論から逃げることも可能であったが、憲法が部分的に改正され、全体が承認されれば、日本は、「平和を愛するシナ、ロシア、朝鮮(そして米国)の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」ことになり、今後は一切言い逃れ出来なくなってしまうのである。【続】