《前々回16年選挙で導入された鳥取・島根、徳島・高知の合区を、反対論もあるなかで維持したことを評価し、「格差是正を指向する姿勢が失われたと断ずることはできない」と述べ、合憲の結論を導いたのだ。
その視線はどこを向いているのか。立法府の振る舞いをチェックして国民の権利を守るという、司法に課せられた使命を忘れ、政治におもねったとしか思えない判断は、厳しく批判されなければならない》(11月19日付朝日新聞社説)
しばしば「憲法は国家権力を制限し国民の権利を守る基本法」などと言われるけれども、<立法府の振る舞いをチェックして国民の権利を守るという、司法に課せられた使命>などという言い回しはやや特殊なものであろうと思われる。
例えば、民主党選挙政策「『新しい政府』を実現するために」(2000年1月16日付)には次のような文言がみられる。
が、司法が<国民の権利>を守る側に立つというのであれば、司法は公正中立な存在ではなくなってしまうだろう。
また、左翼お得意の「人権」、すなわち、「人間の権利」ではなく「国民の権利」と言っているのも曲者(くせもの)である。
《権利請願と呼ばれるチャールズ1世治世第3年の高名な法律の中で、議会は、王に対して、「陛下の臣民はこの自由を相続して来た」旨奏上しています。彼らは自らの諸特権を、抽象的原理に立った「人間の権利として」ではなくイギリス人の権利として、また彼らの祖先より発する家産として要求したのです。この権利請願を起草したセルドゥンその他深い学識ある人々は、「人間の権利」の一般理論について、少くとも我が説教台や貴方がたの国民議会演壇上での演説者の誰にも負けない位良く知っていました。まったく、ブライス博士やシェイエス師と同じ程度には知悉(ちしつ)していたのです。
しかし、己が理論上の学識に勝る実際上の智恵を持っていた彼らは、その智恵に相応しい理由からして、この、実定的で記録にもある世襲という権利の方を採り、およそ人間にとっても国民にとっても高価につき兼ねない権利―自分達の確実な遺産を、粗暴で争訟好きな精神共による奪い合いの的とし、結局は細々に千切ってしまうあの曖昧で思弁的な権利―の方はすべて採らなかったのです》(エドマンド・バーク『フランス革命の省察』(みすず書房)半沢孝麿訳、p. 42)
世襲の「国民の権利」を守ると言うのなら分からないでもない。が、日本国憲法に定められている権利とはただの「人間の権利」でしかない。当たり前であるが、法律に則って判断するのが司法の任務なのであって、司法が「人権」を擁護するなどという偏向はあってはならないことである。【続】