保守論客の独り言

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2050年カーボンニュートラル宣言について(4) ~<天から降ってきた御託宣>を真に受ける人達~

《日本は電力の8割近くを、化石燃料を燃やす火力発電に依存している。太陽光や水力、風力といった再エネは2割に満たない。

 エネルギー基本計画では、30年度の再エネ比率を22~24%と定める。これでは不十分だ。現在、計画の改定が進んでいるが、電源構成を抜本的に見直すべきだ。

 20~22%とされる原子力の構成比率見直しは必須だ。政府は既存原発の再稼働を進める一方、老朽原発の建て替えなどで一定量を確保したいと考えている。

 しかし、原発には重大事故のリスクがある。安全確保のための費用は膨大で、「安価なエネルギー」という考えは世界的に通用しない。政府には、脱原発依存への道筋を示す責任がある》(10月28日付毎日新聞社説)

 「言うは易し」である。政府は原発再稼働を見込んで温室効果ガスの排出を2050年までに「実質ゼロ」とする目標を表明しているのであって、もし脱原発を言うのなら、目標達成は絶望的と言わざるを得ない。

 こんな「夢物語」を語るのなら、どうやって原発稼働分の電力を賄(まかな)うのか代替案を提示せねば無責任であろう。

《再エネ技術の改良、水素エネルギーや二酸化炭素回収・貯蔵といった研究開発への積極的な投資で、脱炭素社会を実現させたい》(同)

 が、再生エネルギーを安定的に供給するためにはさらなる蓄電池の性能向上が不可欠であろうし、山野を切り拓いて太陽光発電装置を設置することには環境的問題もある。水素エネルギーもそもそも水素を生成する際にCO2が発生してしまう。二酸化炭素回収・貯蔵というような技術論に至っては、もはや「偏執狂」の疑いすらある。

 大気中のCO2濃度が増すことで地球の気温が上昇するというのはあくまでも「仮説」である。日本における地球温暖化の議論では、このことがすっぽり抜け落ちがちである。

《客観的事実は科学という特別な方法論による帰結にすぎないし、科学法則もまた仮説にすぎないのだけれど、初等・中等教育ではそんなむずかしいことは教えられないし、教えても理解されることはないかも知れない。専門家にとっては、とりあえず正しいことでも、普通の人にとってこの「とりあえず」はすぐに脱落してしまう。

 高等学校程度までに教え込まれる科学的知識は余りにも多い。科学は再現可能性という公共性を持つゆえに科学になったのは確かだとしても、ほとんどの人は学校で教えられる科学的知識を実証するすべもなければ、その時間もない。あまつさえ、多くの科学の理論は普通の人には難解すぎて、ほとんど理解不可能である。そうなると、科学的に正しい客観的事実といえども、ほとんどの人にとっては天から降ってきた御託宣と変わらない》(池田清彦『科学とオカルト』(PHP新書)、pp. 138-139)

 日本には<天から降ってきた御託宣>を真に受ける人達が多すぎる。【了】