《サイエンスとテクノロジーが、論理と価値の両面において、壁にぶつかっているのは確かである。皮肉なことに両者は繁栄ゆえの枯渇に悩まされているのだ。つまり、まず互いに矛盾する異なった仮説がともに事実に適合するというような事態が科学において頻繁に生じはじめている。また、技術という手段面での価値を有するにすぎないはずのものが目的面での価値にまで昇格し、その結果、テクノマニアの病理が広がりはじめている。
しかし、科学・技術の限界を乗り越えるべく秘教・邪教が出現するのだと見込むのは大いなる錯誤である。実は、サイエンス(とテクノロジー)がオカルト(とカルト)と手を取り合うのは、両者が仲良しだからなのである。オカルトにのめり込んだ人々がサイエンスをことのほか好むという現象、逆にいうとサイエンスを得意とする人々がオカルトに激しく傾いていくという現象、こうした現象は異常でも何でもない》(西部邁『なぜ「日本売り」は起きたのか』(PHP)、p. 100)
「鰯(いわし)の頭も信心から」ということで、「温室効果」による地球温暖化説を真理だと思い込んでいるお目出度い人達が日本には大勢いるようであるが、それはいかに日本人が科学に疎いのか、否、非科学的なものに引かれやすいかということを示している。
《19世紀になり科学技術が制度化されるにおよんでも、背反する理論や実験結果はあり、それぞれの研究者にはそれぞれの自負も衿持もあったろう。しかし、第一の科学革命の頃のように、研究は所詮オカルトだから、優劣の判定基準など知らないよ、ではすまなくなってきたのである。
そこで、様々なオカルト(個々の研究者の理論や実験結果)を平準化する必要が生じた。オカルトの大衆化あるいは民主化といってもよい。社会的に平準化されたオカルトは、公共性を獲得したのだから、もはやオカルトとはいえない。それでは何と呼ぶかというと、「科学」ということになったわけだ。実に科学とはオカルトの大衆化だったのである》(池田清彦『科学とオカルト』(PHP新書)、pp. 49-50)
さらに、日本人は自分たちが考えているように世界も考えていると思いがちなのであろう。地球環境をなんとかしようなどと考えて世界は動いてはいない。あっさり言ってしまえば、地球環境問題で一儲けしようと集まっているだけである。でなければ、排出権取引などという話にはならないのである。
《石炭火力からの撤退を決め、化石燃料による発電を減らし、再エネを大幅に拡大する。その変化を後押しするため、炭素税や排出量取引の導入を急ぐ必要がある。再エネを中心とする電源構成への転換や、送電システムの改革も欠かせない》(10月27日付朝日新聞社説)
<炭素税や排出量取引>を導入すれば、景気の悪化は避けられない。このように朝日が言うのは、日本を衰退させようという裏の意図があるのではないかと私は勘繰ってしまうのだが…【続】