本当に地球環境を考え、温室効果ガスを削減しなければならないと思っているのなら、その最大排出であるシナ、アメリカに排出削減を迫るべきである。
(経済産業省資源エネルギー庁HP「日本のエネルギー2018「エネルギーの今を知る10の質問」」より)
交渉すれば、地球温暖化仮説の信憑性が問われることにもなるだろう。恐らくそこで明らかとなるのは、仮説の稚拙さである。こんな幼稚な仮説に基づいてCO2の排出量を削減しようとしていることの馬鹿馬鹿しさが公にされるに違いない。
どうして交渉を避けるのか。政治的な交渉力のなさ、勇気と信念のなさがまず問われるべきである。
<50年までに温室効果ガス排出を実質ゼロにする>ことなど本当は不可能であろうことは誰もが分かっている。が、そこにあるのは、たとえ出来ないと思われることであっても目標を立て前進することが大切だというおかしな倫理観である。心の中の「魔法の鏡」に「鏡よ鏡、この世で一番美しいのは誰?」と自問し、「それは貴方様です」という返答を聞いて悦に入る自己陶酔である。
《「50年に実質ゼロ」は非常に高いハードルで、30年に10年比で45%削減しないと実現はおぼつかない。ところが現在の日本の目標は「13年度比で26%削減」にとどまり、このままでは「50年に実質ゼロ」の達成はほぼ不可能だ》(10月27日付朝日新聞社説)
で、どうするのかと思いきや、
《30年も先の話だと考えず、できるだけ早く10年後の目標を大幅に引き上げなければならない》(同)
と言う。このままでは30年先の目標は達成できないから、10年先の目標を引き上げろ、それも大幅に、と言うのである。だったら10年後などとケチな事は言わず一層のこと今日から大幅に変えようとなぜ言わないのか。
30年経てば状況は変わっているからまたその時新たな目標を立てれば良いという話か、10年経てばまた振り出しに戻るだろうという甘い話にしか私には聞こえない。
《30年に大幅な排出削減をめざすうえで気がかりなのは、首相が革新的イノベーションの必要性を強調している点だ。
二酸化炭素の回収・貯留・有効利用、水素やアンモニアによる発電といった技術開発が、排出削減の武器になるのはたしかだ。ただ、普及の時期が不確かな技術だけに期待していては、10年後の大幅削減が間に合わなくなる恐れがある》(同)
CO2を削減すれば地球温暖化を避けられると信じているからこのような話になるのだろうが、私のような懐疑論者からすればただ滑稽なだけである。CO2の排出量を抑えようとするのならまだしも、CO2を回収するだの、貯留するだのといった技術論はもはや滑稽の域を超えている。
《オズヴァルト・シュペングラーの表現を借りていうと、近代文明はすでにウンターガング(没落)に入っている、と私はみます。彼は文明の秋から冬にかけて流行るのは「新技術への異常な関心」と「新宗教への異様な熱狂」だといいました。今みられるのはテクノロジズム(技術主義)というカルト(邪教)」の大流行なのです。環境とて、そうしたテクノカルトつまり「技術邪教」の新たな布教対象に選ばれているにすぎない、といえるでしょう。「環境にやさしい技術」という猫撫で声はそうした布教活動の決まり文句のようなものです》(西部邁『どんな左翼にもいささかも同意できない18の理由』(幻戯書房)、p. 120)【続】