保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「個人」とは何か(1) ~もやもやする東京社説~

《「私が目指す社会像は、『自助・共助・公助』そして『絆』です。自分でできることは、まず、自分でやってみる。そして、家族、地域で助け合う。その上で、政府がセーフティーネットでお守りする」

 菅義偉首相が国会での所信表明演説の中でこう述べました。

 この意思表明にもやもや感が消えません》(11月8日付東京新聞社説)

 「自助・共助・公助」に対する首相の解釈は正しく言い当てたものではないと私は繰り返し指摘してきた。「自助・共助・公助」は相互補完的関係(図1)を意味するものであって、<自分でやってみる>ことが先にあり、不足部分を家族・地域・政府が補い支える(図2)という意味合いのものではないだろう。

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 「自助」とは「他人の力によらず、自分の力だけで事を成し遂げること」ということであり、「自立」や「自律」の意味合いが強いとみるべきであろう。

《「天は自らを助く者を助く」という諺は、経験上確かな格言である。たった一旬の中に、すべての人類の成功と失敗の経験を包含している。自分自身を助けるというのは、よく自主自立して、他人の力に頼らないということである。自助の精神は、人間の才智が生まれてくるための根源である。そのことから推論すれば、自助の精神が具わった人民が多ければ、その国家は必ずや活力に満ち、精神も強く盛んになるはずである。他人の援助を受けて成就したものは、その後、必ず衰えてしまうことになる。

 これに反して、自分自身の力で成し遂げたことは必ず発展して、妨げることを許さないほどの勢いがある。思うに、自分が他人のために多くの援助を行えば、必ずその人が自分自身で励み勉める気持ちを削いでしまうだろう。そのような理由により、上に立つ人物の厳しすぎる指導は、その子弟の自立の志を妨げることになるし、下々の者を抑圧する政治や法律では、人民が経済的自立を失い、活動力を弱めてしまうことになるのだ》(サミュエル・スマイルズ『自助論―西国立志編―上』(教養の大陸BOOKS)、中村正直=訳/渡部昇一・宮地久子=現代語訳、pp. 30-31)

 さて、社説子はどうして“もやもや”しているのであろうか。

《「三助」は社会の支え合いの考え方で、これ自体は理解できます。しかし、首相の発言に「自助ばかり求めるものだ」との批判が出ています》(同、東京社説)

 (<三助>と書くと銭湯の「さんすけ」を想起してしまうので以後「3助」と表記する)

 社説子は『自助・共助・公助』(3助)自体は認めるが、菅首相の言い方では納得がいかない。だから“もやもや”しているということなのであろう。が、社説子が納得いかないところは私のとは異なる。社説子は、<自助>に偏重した菅首相の発言が気に入らないということのようである。

《高度成長期は人口も経済力も右肩上がりでした。賃金は上がり、共助は主に企業の福利厚生が担いました。

 今は違います。賃金は上がらず、雇用が不安定で低賃金の非正規雇用が増えました。企業にも余裕はありません。子どもたちの7人に1人が貧困状態です。地域のつながりも途切れ、格差が社会の分断を深刻化させています。

 そこにコロナ禍が襲いました。仕事を失う人が増え自助の基盤である雇用がやせ細っています》(同)

 つまり、自助の前提条件が崩れてしまっている今、自助を強調するのは間違っていると言いたいのだと思われる。【続】