保守論客の独り言

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バテレン追放令について(2) ~宣教師の衣の下に鉄砲を見た秀吉~

一方で、葦津珍彦(あしづ・うずひこ)説と軌を一にする記述も少なくない。例えば、中学歴史教科書にも次のような記述が見られる。

キリスト教の布教を認めていた秀吉も,長崎の土地がキリシタン大名からイエズス会に寄進されていたことを知ると,1587天正15)年,バテレン追放令により宣教師の国外追放を命じ,キリスト教を禁止しました。イエズス会による布教が,ポルトガルやスペインの植民化政策と密接につながっていることを危険視したためでした》(『中学社会 新しい日本の歴史』(育鵬社)平成24年発行、pp. 96-97

 さらに次のような記述もある。

ポルトガルのアジア侵略の魔手は日本にも忍び寄ってきました。1543年、マカオポルトガル船が台風に遭(あ)い、種子島に漂着、鉄砲を伝えます。これがポルトガルの東洋侵略に日本が触れた最初の出来事でして。その6年後、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸します。

 ヨーロッパでは百年にわたるカトリックプロテスタント宗教戦争が始まる中、1544年にイエズス会が創設され、ローマ法王によって公認されました。このイエズス会創立者フランシスコ・ザビエルとイグナティウス・ロヨラの2人です。イエズス会のナンバーワンがロヨラで、ザビエルはナンバーツーです。

 ローマ法王庁から公式に認可を与えられるや、ロヨラがヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸を、ザビエルがアジア大陸をそれぞれ管轄することに決まりました。ザビエルはアジア全域へのキリスト教の布教という大任を帯びて、インドから次にジャワへ、そして日本へとたどり着いたのでした。

 名目はキリスト教の布教ですが、しかし、ロヨラもザビエルも一介の修道士ではありません。ザビエルはインド以東の地におけるローマ法王の代理という重い権限を与えられていました。しかもイエズス会はローマ教会の中でも戦闘派で、その真の目的は異教、異端の国々の抹殺、民族の殺戮にありました。ローマ法王の侵略の手先がイエズス会であり、アジア侵略の密命を帯びて来日したのがザビエルだったのです。事実、教会にはマニラから持ち込んだ鉄砲や弾丸が貯蔵されていました。

 この魂胆をいち早く見抜いたのは豊臣秀吉です。秀吉は、キリスト教一向宗のように武装して権利を求めない限り、布教を容認する方針でしたが、1587年、島津氏を討伐するために九州を訪れて考えが一変します。

 長崎が教会領となり、そこで寺院がキリスト教徒によって焼き討ちされたという事実を知ったからです。宣教師の衣の下に鉄砲を見た秀吉は、「バテレン(神父)追放令」を発し、小西行長高山右近などのキリシタン大名キリスト教を棄てるよう迫りました。しかし、秀吉は貿易による利益と海外情報の窓口は失いたくなかったので、南蛮の商人たちの来航は認めませんでしたが、キリスト教の禁止は徹底しませんでした》(前野徹『新歴史の真実』(経済界)、pp. 105-106

 鍵となるのがルイス・フロイス『日本史』をどう読み解くのかということであろう。今回は他者の記述の引用だけで終わってしまったが、後日、私なりの見解が何か得られれば、改めてこの問題を取り上げたいと思う。【了】