先日、次のような記述を目にして驚いた。
《キリスト教を日本に初めて布教したザビエルは、まづ京都に行って皇室の諒解(りょうかい)をもとめたいと思った。だが戦国乱世のころで、ザビエルは日本の最高文化センターとしての皇室に連絡もできずに西国へ帰った。切支丹(きりしたん)は皇室の諒解もなく、皇室に直属する幕府(斜陽没落の時代の幕府ではあったが)も問題にしないで、九州の地方権力と結んだ。
それは精神的文化的には、日本で三流級の辺境地区の権力なので、切支丹と対等の文化交流などできる連中ではなかった。たゞ無条件的に隷属して日本を外国教会の植民地とすることも意としないやうな自主性のない不見識な権力だった。当時の切支丹大名の外国あて文書の卑屈さなど、おそるべきものだ。それで切支丹の方も、初めから日本を侮蔑してかかった。
大村とか有馬などの地方権力を隷属させた切支丹は、長崎、茂木をはじめ各地を教会領土とした。そこでは行政権も司法権(死刑以下の裁判をする権)もすべて外人教会にぞくし、教会の許可しない非信徒の日本人の居住も禁じた。純然たる外国植民地が日本島内にできたのは、前にも後にもこの時代のみである。
しかもその植民地とその周辺では、教会権力の専横ははなはだしく、日本人の奴隷売買が公然と行はれ、おびたゞしい数の日本人奴隷が世界各地に移出された。しかもこれに服しない日本伝来の神社、仏閣は片はしから焼き払はれ、仏教徒などの焚殺される者も少なくなかった。切支丹大名の権力は、強力な西洋の武器と、新兵器を利用する軍事学(参謀)に授けられて、急速に発展して行った。このまゝでは、日本も南方アジア諸国と同じく植民地的隷属国になるほかにない形勢だった。
豊臣秀吉が、九州まで来て、この現地の情況を知って、はじめて切支丹禁教を断行した》(葦津珍彦(あしづ・うずひこ)『天皇 日本人の精神史』(神社新報社)、pp. 41-42)
秀吉が「バテレン追放令」を出したことは知っていても、今までその理由について深く考えたことがなかった。否、どちらかと言えば秀吉がキリスト教を弾圧したぐらいにしか思っていなかったのであるが、これでは話が正反対である。
実際、次の記述を見れば、キリスト教を抑圧する政策だったとしか思われない。
《秀吉が天正15年(1587)、九州在陣中の5月、キリシタン大名の大村純忠(すみただ)と大友宗麟(そうりん)が相ついでこの世を去った。2人はこの地方の信仰をささえるもっとも大きな柱だったのである。この絶好の機会をとらえた秀吉は、周囲の意向を入れてだんぜんキリスト教師追放令を公布し、統一者としての権威を表明したものであろう。
このように.バテレン追放令は、キリスト教を中心とする外国勢力にたいする統一者意識を表明したものであるが、それだけ多分に感情的であった。いったいキリシタンの布教を貿易から分離しようという考え方は、少なくともポルトガル商業資本の東洋進出の事情を知るものにとっては、とうてい不可能のことだったからである。
国外追放の命令をうけた宣教師たちは、その法令の不備を利用して、表面上はおとなしく、それに従う様子を示しながら、各地に潜伏して、そのまま布教をつづけていた。秀吉の追及もそれほどきびしくはなかったし、ことに貿易はまったく妨害されなかったから、じっさいには打撃は思ったより軽かったといえよう》(『日本の歴史7 天下統一』(読売新聞社)、pp. 144-145)【続】